シリーズ「各国の駐在妻が見た、新型コロナと現地の今」【第3弾】中国・蘇州

新型コロナウイルス感染拡大に直面する世界の駐在妻がリポート! ~駐在家族たちは、今、何に戸惑い、何を思っているのか~

執筆者プロフィール

浅野 藤子
(あさの・ふじこ)

2017年秋から、夫の赴任に伴い中国蘇州市での生活を送る。息子3歳、娘1歳の4人家族。
渡航までは、地域密着型のグループ会社で総合職として勤務。主には採用・教育、社内報制作に携わる。企業の教育担当者として産業能率大学とは10年近い付き合い。
パワフルで活気あふれる中国の人たちは、どこか地元の大阪を思い出させます。
すっかり馴染んでしまった蘇州での暮らし。今は残りの駐在時間を惜しむように過ごしています。

はじめは他人事だった、武漢でのできごと

「なんか武漢のほうで原因不明の肺炎が広がっているらしいよ。」

「え、やだなぁ。空港での出入国に時間がかかったりするんじゃない。」

1月中旬。春節休暇を利用して、一時帰国を目前に控えた私たち家族にとって、このニュースはまだ対岸の火事のような出来事で、夫婦の会話もまったく他人事のようでした。

私たちの住む蘇州は上海の隣にあります。武漢との距離は約750km。近いのか、遠いのか。地図を見たところでその感覚はつかめないでいました。

駐在家族が住むエリアは高層ビルが立ち並びます。
シンガポール政府と共同開発された区域の街並みは、近代的な雰囲気です。

夫の会社の春節休暇は、他社より少し早く始まります。今回の帰路も何ら特別なことはなく、家族4人で束の間の日本生活を味わいに帰りました。

しかし、日本で休暇を楽しんでいる間に事態は急速に悪化。日に日に舞い込むニュースに、「予定通り蘇州に帰っていいのか」そんな迷いが生じるようになってきました。

そして武漢は閉鎖され、中国全土で春節休暇が延長される事態に。(1月28日発表。延長期間は省や市により異なる。)家族での一時帰国は1週間延びることになりました。

日本に残る? 蘇州に帰る?

夫は延長された休暇が明けてすぐ、蘇州で出社することが決まりました。この時点で現地の駐在員を日本に引き上げる企業もあったので、正直なところ、会社の判断には少し抵抗がありました。
しかし、中国のこのような事態に日系企業の日本人社員だけが自国に避難していいのか。そう考えると、夫の会社の判断は当然だとも思いました。

ここで迷ったのは、「私と子どもたちも一緒に帰るか」です。夫と一緒に帰らないという選択は、後から私がひとりで息子(当時2歳)と娘(当時生後9か月)を連れて蘇州に帰ることを意味します。
じっとしていられない性分の息子と、まだ授乳が必要な娘。私はすぐに決断できずにいました。

しかし、息子の幼稚園の開校が延期になったこと、蘇州では外出制限がされていることを受けて、私と子どもたちは日本に残ることにしました。

感染拡大する中国にひとり帰る夫。戦地に赴く夫を見送るのはこんな気持ちだろうか。そんな思いがよぎりながら、ただ無事で過ごしてくれることを願い、タクシーに乗り込む夫を見送りました。しかし、この時点では「2週間後くらいにはまた会える」。それくらいの、束の間の別れだと思っていたのです。

しかし、幼稚園の開校はさらに延期に。そして、夫の会社からは「帯同家族の一時帰国指示」が出され、私と子どもたちは、しばらく日本に滞在することになりました。

夜は街中のネオンが煌々と光っています。

長期化する一時帰国、問題は日本のどこに滞在するか

この頃には、蘇州の友人のほとんどが、会社の指示で母子もしくは家族で一時帰国していました。ここで問題になるのは、「日本のどこに滞在するか」です。私たち駐在家族のほとんどは、日本に自宅がありません。

私たちは、実家でお世話になることができました。つい半年前まで第二子の出産で帰省していたため、子どもたちが慣れていたことも幸いでした。

しかし、実家に頼れないご家庭も多くあります。ある友人は、子ども3人を連れてホテル生活を送っていました。空室がない日は、子どもとスーツケースを抱えてホテルを移動するそうです。そして、食事はすべて外食。母子ともにどれだけのストレスを抱えていたか、私には計り知れません。
「昨晩、長女が"お母さんのご飯が食べたい"と泣き出しました」という話には、私も思わずもらい泣きしました。

春節休暇に海外旅行に出かけ、そのままの足で日本に一時帰国したという家族もいます。健康保険証もキャッシュカードもない。わずかな荷物とクレジットカードだけで日本に滞在しています。

突然、自分の家に帰れなくなる。

自分の人生でそんなことが起こるなんて、誰もが想像していなかったのではと思います。

外国人の隔離措置、そして入国禁止に

その後、上海では「日本からの渡航者に2週間の隔離」が義務付けられました(3月4日)。指定された施設での隔離、もしくは自宅のドアに警報器をつけられ、玄関から一歩も出られない生活。

「3食×14日分、42食分のレトルト離乳食をトランクに詰めて…」とシミュレーションをしてみたものの、やはり2児を連れての隔離は非現実的。それは目に見えていました。

さすがにこの時点で、蘇州に帰ることを諦めるようになってきました。

その後、日本で過ごしている間にも、中国への入国条件は刻一刻と変わっていきました。
一度、日本人に対しての措置が緩和されたとの情報が入ったことがありましたが、翌日には解除。それくらい、現地の情報はコロコロと変わり、にわかには信じられなくなってきました。

家では、毎朝の「いってらっしゃい」と毎晩の「おかえりなさい」をお父さんにビデオ通話で伝えるのが、子どもたちの日課になっていました。「早く会いたいなぁ」「いつになったら会えるかなぁ」もお決まりの台詞。

とにかく隔離措置の緩和を願って日々を過ごしていたものの、それに反して世界ではどんどんと感染が広がっていきました。そして、ついに中国は「外国人の入国禁止」に(3月28日)。居留許可を持つ私たちですら、入国できなくなってしまったのです。

中国に入国できない。そのような状況になり、一気に不安が押し寄せてきました。たとえ夫の身に何か起こっても、私たちは会いに行くことができないのです。もし、感染したら?事故に遭ったら?よくないことばかりが頭に浮かびます。ただただ、そうならないことを祈るしかありませんでした。

先の見えない生活、望むのは家族の再会

元々キャリア志向で、専業主婦願望がまったくなかった私。毎日ひたすら子どもたちと向き合う日々が2か月以上続き、ときどき、イライラして大きな声で叫びたくなることもあるし、何とも言えない虚無感に襲われることもあります。

今の生活には愛用のパソコンやタブレットもないし、中国語学習のテキストや電子辞書もありません。子どもたちのお気に入りのオモチャも、春になったら着せたかった娘のかわいい洋服も。

観光地でもある旧市街の街並み。蘇州は運河が張り巡らされた情景が美しく、東洋のベネチアとも呼ばれています。

「ないもの」を数えたらきりがありません。

でも、「あるもの」や「できること」はたくさんあります。

スマートフォンひとつで、このように自分の体験談を発信したり、世界中の同じ境遇の人たちとオンラインで繋がったり。

何より、家族は健康で住むところがあり、食事にも困っていない。夫には仕事がある。自分はなんて恵まれているんだろう。世界中がこのような状況になり、本当に心からそう感じます。

「ないもの」を求めず、「あるもの」に感謝をすること。

それは、「ないもの」づくしの海外生活の中で前向きに過ごすために、自分に言い聞かせてきたことでもあります。

自分ではどうしようもないことに抗わず、自分ができることを見つけ、そこにエネルギーを使う。そういった海外生活で得た考え方や経験が、今に生かされているように思います。

でも、一つ望むとすれば…。

やはり家族で一緒に過ごしたい。こんな不安な状況だからこそ、家族で一緒に乗り越えていきたいです。

夫と離れている間に娘は歩くようになり、息子はお喋りがどんどん上達しました。今しか見られない子どもの小さな成長を、夫にも近くで見させてあげたい思いもあります。

先日には幼稚園の再開日が決まったとのうれしい知らせがあり、希望の光が見えたように思いましたが、二転三転して白紙になりました。予約していた復路のフライトも、また欠航になりました。

蘇州は整備された公園や散歩道などが充実しています。
公園や街路樹などの木々は定期的に手入れがされ、いつも美しく青々としていま す。

私たちの生活がどうなっていくのか、まだまだ先は見えません。とにかく今は世界中の事態の収束を祈りながら、今自分ができることにエネルギーを注ぎ、近い将来に家族が健康で再会できることを願うばかりです。


現時点の状況

中国の感染者数 84,302人
中国の無症状感染者数 984人
中国の死者数 4,642人
蘇州市での感染者数 87人
蘇州市での死者数 0人
  • 現在日本に一時帰国されているため、現地の写真は平常時の写真となります。

(2020年4月23日 日本)

  • このコラムは、『駐妻カフェ』を運営する〈グローバルライフデザイン:飯沼ミチエ氏代表〉にご協力いただきました。