【柳川範之教授 特別インタビュー】人材戦略を経営戦略の中心に据え、将来の価値を生み出す「人的資本」への投資を

【柳川範之教授 特別インタビュー】人材戦略を経営戦略の中心に据え、将来の価値を生み出す「人的資本」への投資を

人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで中長期的な企業価値向上につなげる「人的資本経営」の議論が深まっています。
経済産業省は2021年、未来を見据えて産学官が目指すべき人材育成の大きな絵姿を示すことを目的に「未来人材会議」を設置。この会議で座長を務める東京大学大学院経済学研究科の柳川範之教授にお話を伺いました。

柳川 範之 氏

東京大学大学院 経済学研究科・経済学部 教授

1963年生まれ。父親の仕事の関係でシンガポールで小学校を卒業。中学校卒業後に移住したブラジルでは、高校に行かずに独学生活を送り、大検を受けて慶應義塾大学経済学部通信教育課程へ入学。大学時代はシンガポールで通信教育を受けながら独学生活を続ける。大学を卒業後、東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。経済学博士(東京大学)。専門は制度の経済学。主な著書に『法と企業行動の経済分析』(第50回日経・経済図書文化賞受賞、日本経済新聞社)、『東大教授が教える独学勉強法』『東大教授が教える知的に考える練習』(草思社)などがある。

柳川 範之 氏の顔写真

柳川先生のインタビューの様子がご覧いただけます

「人」への投資の重要性を 東京大学 柳川範之教授に聞く!(約2分)

この記事は、通信研修総合ガイド2023特集ページ「人的資本と人材育成」の一部です。
特集全体をご覧になりたい方は、こちらからダウンロードいただけます。

将来の価値を生み出す「人材」は、企業にとって圧倒的に大事な資本

――政府が発表した「経済財政運営と改革の基本方針2022(骨太の方針)」では「人への投資」が明示され、産業界でも「人的資本経営」が注目されています。背景を教えてください。

企業が成長していく基本が「人」にあることは間違いありません。もちろん技術開発なども大事ですが、それは人材がいてこそ。広い領域でさまざまな世代の人の能力を開発し、より活躍できるようにしていくことが企業経営の基礎となります。しかし実際に日本企業の中でどれだけ人材育成や能力開発が行われてきたのかと言えば、世界と比べてもかなり低水準になっているのが実態です。もともと日本企業には長期雇用を前提として人を大切に育てる文化がありましたが、近年は厳しい競争環境の中で足元の利益やコスト削減に注力せざるを得ない状況にあります。そこで改めて「人への投資」に焦点を当て、企業に「日本が重視してきた人を大切にする経営」を思い出してもらい、人材育成に力を入れることを支援する政策が必要になってきているのだと思います。

現在は、省庁横断で政府一体となって「人への投資」を推進しようという機運があります。昔は「教育は学校で受け、働き始めたら仕事に専念してオンザジョブトレーニングを中心に学ぶ」というのが当たり前でした。しかし現在では、働きながら学校に行ってもう一度学び直したり、社会経験を持つ人が高等教育の場で学生と議論することが珍しくなくなりました。このような変化を受け、「高等教育を担当するのが文部科学省、産業を見るのは経済産業省」というような縦割りをやめ、経済産業省と文部科学省が連携し、さらに厚生労働省など他の省庁も含めて政府全体で「人への投資」について考えようという流れになっているのでしょう。

――人への投資については、人材に関する費用を労務コストとみるか戦略的投資とみるか、企業のスタンスによって異なるようです。

人材は、将来の価値を生み出すという意味で企業にとって圧倒的に大事な資本であり、まさに「人的資本」と呼ぶべきものだと思います。人材の価値を高めるお金の使い方は「人的資本への投資」と位置付けるべきでしょう。しかし会計上、これらは全て労務関連費用として処理せざるを得ず、従来は「コスト」と認識されてきました。本質的な意味での「投資」と「コスト」の考え方と実務の間にズレがあるわけです。今後は企業が人材を資本と認識するのはもちろん、人材の価値が非財務情報として開示され、マーケット関係者など財務諸表を見る人がそれを理解するようになることが重要でしょう。

人的資本から生み出される価値は「人のやる気」に依存する

――人的資本に関する考え方として「物的資本」との対比でその特徴を述べられていますね。

一般に資本という場合、通常は工場や設備などの「物的資本」を中心に考えがちです。しかし物的資本と同じように大事なのが人材であり、それが「人的資本」であると整理しています。
同じ資本であるといっても、二つが全く同じ性質を持ってるわけではありません。物的資本と人的資本の最も大きな違いは、人的資本から生み出される価値が「人のやる気」に依存する点です。工場の機械なら稼働することで一定のアウトプットが得られますが、人の場合、モチベーションや注意力がどのくらいか、疲れていないかといったことにアウトプットが左右されるわけです。

人的資本を最大限に活かすカギはインセンティブとチームのマネジメントです

柳川氏

人的資本から高いリターンを得るためには二つの重要なポイントがあります。一つは、インセンティブのマネジメントです。人材育成とインセンティブのマネジメントをセットで考えず、お金をかけて「良い人材」を育てるだけでは、「能力は高いが、やる気が発揮されず結果的にアウトプットが小さい」ということになりかねません。
もう一つのポイントは、人的資本のアウトプットが「人と人の掛け算」次第で大きく変わることです。企業はチームワークによってより良い成果を追求していくもの。良い成果をもたらすにはどのような仕掛けや仕組みが必要か、組み合わせをどうするべきか、チームのマネジメントの巧拙が問われます。
個々の人材の能力が同等であったとしても、インセンティブとチームのマネジメント次第で成果が大きく変わるのが人的資本の重要なポイントだと思います。

良い人材採用のためには人材流出の可能性を許容する必要がある

――人的資本への投資については、人材流動化への懸念が問題視されがちです。

人が辞めるのを防ぐために人材を育てず能力開発もさせないというのは、本末転倒だと思います。人材は流出しないかもしれませんが、能力が高まらずやる気も出せない人ばかり集まっても企業経営がうまくいくはずはありません。
繰り返しになりますが、大事なことは、能力を身につけてもらうことに加えて「やる気を持って仕事をしてもらうこと」です。それが人的資本を最大限に活用することにつながり、企業のリターンを大きくします。従業員のモチベーションを高めるには、会社の中か外かを問わず活躍できる能力を育て、活躍する場への門戸が開かれている状況をつくることが必要でしょう。

もちろんモチベーションを高める工夫をしたところで、育てた人材が辞めてしまうケースをゼロにすることはできません。しかしそれは「必要経費」と考えるべきです。その経費が認められなければ、いま会社で働いている人材のやる気が失われるだけでなく、これから良い人材を採用することも難しくなると思います。今の若い世代は「会社がどれだけ社員のことを考え、成長をサポートしてくれるか」を重視する傾向があります。能力開発を支援せず、「人材が流出する可能性が高まるような教育はしない」という会社には、中途採用か新卒かを問わず、良い人材は集まらないでしょう。矛盾した話に聞こえるかもしれませんが、良い人材を採用したいのであればこそ、良い人材が流出する可能性も許容する必要があるのです。

人事担当者は経営戦略の目線を持って人材戦略を考えるべき

――座長を務めておられる経済産業省「未来人材会議」の中間報告では、産業界への期待や役割が述べられています。未来を見据えたとき、企業の人事教育担当者に求められる視点やアクションについてどうお考えですか。

本来、人材戦略と経営戦略は連携して考えていくべきです。そもそも人材の話と全く無関係に経営戦略は立てられるはずがありません。企業は「人」がいなければ何もできないわけですから、むしろ人材戦略は経営戦略のど真ん中に置かれるべきでしょう。そうあってこそ「人をどう育てるか」「人材育成において何にお金を投じるか」が明確になるのだと思います。

その意味で、人事担当者の方々に期待するのは「経営戦略的な目線を持つこと」です。30年後、40年後を考えたとき、自社が具体的にどのような産業に進出し、どの領域で勝ち残っていくのか。経営戦略から人事を考えることによって、初めて「どのような人材を会社の強みとし、育てていくべきか」が見えてくるでしょう。逆に言えば、経営戦略の目線を持っていなければ、人材育成の発想は現在の事業ドメインの範囲にとどまる小手先のものになりがちだということです。

経営戦略と連動した人材戦略は、成果が現れるのに時間がかかりますから、立案・実行するのは簡単なことではないでしょう。しかし長期的に人的資本を蓄積していくためには非常に重要なポイントです。

個人のやる気や関心を考慮することが企業の成長にもつながる

——未来人材会議では、未来を支える人材を育成・確保するためには雇用・労働から教育まで社会システム全体の見直しが必要と訴え、方向性の一つとして「好きなことに夢中になれる教育への転換」を示しています。これは社員教育についても同様とお考えでしょうか。

「好きなことに夢中になれる」ということは企業の人材教育でも非常に重要です。好奇心を持って好きで学んでいるのと、「全く関心を持てないけれど会社の命令で学ばされている」のとでは、学習の成果は大きく異なるはずです。時間やコストをかけて従業員に学んでもらうなら、本人が関心を持ててやる気の出る分野にしたほうがいいでしょう。

これは学びだけではなく仕事全般に言えることです。先ほど人的資本からより高いリターンを得るにはモチベーションがポイントだと説明しましたが、人間のモチベーションは給料などの待遇以上に「面白いと思えるか」「関心を持てるか」によって大きく変わるのです。ところが現状では、人事において「本人が何をやりたいか」「本人はどんなときにやる気が出るか」が二の次になっている傾向があるように思います。未来人材会議の中間報告では、日本企業の従業員エンゲージメントが世界全体で見て最低水準にあり、「現在の勤務先で働き続けたい」と考える人が少ないのに、転職や起業の意向を持つ人も少ないというデータが注目を集めました。多くの人がモチベーションの低い状態で働いているのは、とてももったいないことです。従業員一人ひとりがやる気や関心を持てる仕事に従事できるようになれば、それによって企業も成長できる部分があると思います。人事では、個人のやる気や関心がより考慮されるようにするべきでしょう。

インタビューに答える柳川氏の写真

このような視点は、人材流出に対する本質的な対策としても意味があります。仕事で活躍してもらうことが大事だと考えるからこそ、従業員一人ひとりの社外でのアクティビティや関心事にも目を向けて「本人にとって何が望ましいのか」を中心に人事を考えていくことが、これからは必要になってくるでしょう。

翻って、人事部門が従業員一人ひとりについて「どのようなスキルセットとマインドセットを持っているのか」を把握できているかと言えば、必ずしもそのような状態になっていない会社が多いのではないでしょうか。人的資本として従業員を見て情報開示を進めていくとなれば、スキルセットやマインドセットをどう把握するのか、会社として定義を持つことから始める必要があるかもしれません。

大きな環境変化の中、過去の延長線上ではキャリア形成できない

——独学についても多くの知見をお持ちです。個人に向けた学び方やキャリアの考え方についてのアドバイスをお願いします。

これまで多くの人にとって、キャリアは「配属された部署で与えられた仕事をし、会社から学ぶように指示されたことを身につける」という受け身の姿勢で重ねてくるものだったかもしれません。しかし現在のように、あらゆる場所でデジタル技術が活用されるようになりAIやロボットによる雇用環境の変化の可能性も指摘される状況では、過去の延長線上でキャリアを形成するのは難しくなるでしょう。

今後、個人は自分でキャリアプランニングについて考えることが求められます。そのためには「自ら学ぶ」ことの一つ手前の段階として、「自分のキャリアや学びについて主体的に考える」というスタンスを持つことが必要になるのではないでしょうか。もちろん、会社が従業員の能力開発に力を入れることは重要です。しかし個人側から見るならば、「能力開発は会社に頼っていればいい」と考えるべきではありません。

柳川氏

自分のキャリアや学びについて主体的に考えるスタンスが必要な時代です

新たなことを学ぶ前に思考のクセをなくす「アンラーン」を

——環境変化を生き抜く企業や個人にとって「リスキル」「学び直し」が重要なテーマになっています。

私がみなさんにお勧めしたいのは「アンラーン(Unlearn)」です。
人間というのは不思議なもので、本人が「見ているつもり」でも、先入観のために実は見えていないことがたくさんあるものです。例えば飲食に関心がある人は、道を歩いているとき、新しい居酒屋やラーメン店などにはすぐ気づきます。ところが関心がないジャンル、例えばアパレルの店舗などについては、目に入っているはずなのに気づかなかったりするのです。

人には「見ているようで見ていない」、あるいは「本を読んでいるようで読めていない」「何かを学んでいるようで、実は自分が学びたいことだけを覚えている」といった傾向があります。自分が大事だと思っていることや見たいこと、知りたいことはスムーズに情報としてインプットされますし、記憶にも残りやすい。その一方で、さほど大事だと思っていないこと、あまり見たくないこと、興味が薄いことなどは頭からすっぽり抜け落ちてしまうことになりがちです。

書籍アンラーンの表紙の画像
Unlearn(アンラーン)人生100年時代の新しい「学び」
(柳川範之、為末大/日経BP)
過去の学びや蓄積を活かしながら、クセやパターン、思い込みなどをなくすことにより、自分を「新たに成長し続けられる状態」に整える技術について考察している。

新たなことを学ぶ場合、まずこういった思考のクセをなくしたり理解のパターン化を解きほぐしたりして、フラットな状態をつくることが必要だというのがアンラーンの考え方です。特に一つの会社や特定の業界で10年、20年、30年と経験を重ねてきた人の場合、その会社の文化や企業独自のやり方、業界の価値観や判断基準などが深く染み付いてしまい、そのパターンでしか物事を処理できなくなっている可能性があります。転職したり独立したりしてキャリアの転換を図ろうとするときにつまづく原因も、能力がないことではなく、パターン化してしまった思考のために新しい環境で能力を発揮できないケースが多いのではないかと思います。
自分のクセに気づいてそれをなくし、培ってきた能力を多様な場面で活かせるようにするという意味で、アンラーンはこれから多くの人にとって非常に重要なカギになるでしょう。

Unlearn チェックリスト&実践のヒントを見てみましょう

アンラーンの必要度が分かるチェックリスト

1つでも当てはまる人はアンラーンで学びの効率が上がります!

柳川氏
ビジネス編
  • 会社名や肩書を名乗らずに自己紹介するのは苦手(不安)
  • 携帯電話のアドレス帳に入っている連絡先のうち、半分以上が仕事関係者
  • 「うちの会社では……」が口グセになっている
  • 1か月のうち、仕事関係者以外と会った人数は3人以下
  • 何かをしない言い訳に「仕事が忙しくて」とつい言ってしまう
  • 「今日は仕事に行きたくないな」と思う日がある(明らかな体調不良を除く)
  • 「以前はこうだった」「こういうときはこうするものだよ」とすぐに前例を持ち出す
日常生活編
  • 何か決まった口グセがある(とくに、「疲れた」などネガティブなもの)
  • 最近、ワクワクすることが減った
  • 周囲の人との会話が、毎日同じような話題ばかりだ(だから熱が入らない)
  • 仕事とは別の分野の「学び」をしていない
  • どんなことにも「そんなこと当たり前」と考えがち(いちいち驚かない)
  • すごい成果を出した人は、自分とは別世界の人だと思う

学び続けられる状態に自分を整えるためのアンラーンのやり方

  • 無意識にやっていることを洗い出す
  • それらの必要性や理由を、「いつも」「これまで」「通常」「普段」などの言葉を使わずに説明してみる

小さなアンラーンを習慣化するための8つのヒント

  • 日頃から、「これは、今の会社(環境)じゃなくても通用するだろうか?」と自問自答しておく。
  • 今の仕事に就こうと思った理由を改めて自分に問う。その理由に対して情熱を傾ける。
  • 中学生をはじめとする専門外・業界外の人に、仕事や熱中していることを説明する。その「伝わらなさ」から「自分のクセ」を発見する。
  • 多様な年齢、仕事、国籍、環境の人たちの中に身を置いて、「自分にとっての当たり前」と「他人にとっての当たり前」の違いに気づく。
  • 周囲の身近な人に、「あなた」について尋ねてみる。自己認識と周囲からの評価との違いを受け入れる。
  • あえて情報量をセーブして動作や仕事を言語化することで「本質」にフォーカスする。
  • 本業とはなるべく遠い副業をして、本業だけに通用する「当たり前」に気づく。
  • 「いかになじむか」ではなく「いかに違和感を忘れないか」を大事にする。

出所/『Unlearn(アンラーン)人生100年時代の新しい「学び」』巻末付録から転載
(2022年8月24日取材・撮影)

この記事は、通信研修総合ガイド2023特集ページ「人的資本と人材育成」の一部です。
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