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  3. 【特別インタビュー】AI時代だからこそ人と人がききあい、問いを育てる場をつくる―哲学者 永井玲衣氏に聞く、「問うこと」の意味

事例・コラム

プロフィール

  • 永井 玲衣 氏

    永井 玲衣 氏

    哲学者・作家
    人びとと考えあい、ききあう場を各地でひらいている。問いを深める哲学対話や、政治や社会について語り出してみる「おずおずダイアログ」、せんそうについて表現を通して対話する写真家・八木咲とのユニット「せんそうってプロジェクト」、Gotch主催のムーブメントD2021などでも活動。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)『世界の適切な保存』(講談社)『さみしくてごめん』(大和書房)『これがそうなのか』(集英社)『せんそうって』(講談社)。第17回「わたくし、つまりNobody賞」受賞。詩と植物園と念入りな散歩が好き。

AIの進化によって、私たちの働き方や学び方は大きく変わりつつあります。効率よく答えにたどり着ける時代になった一方で、組織の現場では、前提を問い直すことや、人と人とが対話することの難しさが、いっそう浮かび上がっています。
いま、企業の人材育成において必要なことは何か。哲学対話の実践を全国各地、さまざまな場で重ねてきた哲学者 永井玲衣氏に、「問うこと」とはどういうことか、哲学対話が組織にもたらすもの、そしてAI時代だからこそ大切にしたいことについて伺いました。

「手のひらサイズの問い」から哲学は始まる

――哲学というと、どうしても「生きるとは何か」といった大きく難しい問いをイメージする人も多いと思います。一方で、永井さんは日常にある身近な問いを「手のひらサイズの問い」と呼び、大切にされていますが、それはなぜでしょうか。

私たちは、哲学的な問いはもっと立派で、壮大で、難しいものでなければならないと思い込んでしまっているところがあります。でも私は、哲学とは誰もがすでに営んでいるものだと捉えています。その感覚を取り戻すために、「手のひらサイズの問い」という言葉を使ってきました。

たとえば「切った爪はゴミなのか」という問いは、一見すると笑ってしまうような問いかもしれません。でもそこには、「私の身体はどこまでが私なのか」「自己とは何か」「ゴミはどこからゴミになるのか」といった本質的な問いが隠れています。

私たちはそれに気づかないでいてしまっている。でも本当は、日常の問いの中にこそ、その人の等身大の問いがあります。「手のひらサイズ」という言い方には、そういう人肌の等身大の問いを大切にしたいという思いがあります。笑われてしまいそうな問い、まだ形になりきっていない問いの中にも、哲学はちゃんと始まっている。その感覚を、もっとひらいていきたいと思っています。

私たちはすでに問いに出会っている

――永井さんは、問いを見つけるのがとても上手な印象があります。

それは誤解で、私が特別上手なのではなく、みんな上手なんです。私は十数年、年間300件ほど対話の現場に関わっていますが、どの現場でも問いが出てこなかったことはありません。企業や学校、お寺、美術館、被災地、さらには路上で不意打ちでやることもありますが、必ず問いが立ち上がってきます。しかもそれは、手のひらサイズの問いなんです。

むしろ問うべきなのは、「どう問いを立てるか」よりも、「なぜ私たちは、すでにたくさんの問いを持っているのに、それを抑圧したり、見えないふりをしたり、表現できないと思ってしまうのか」ということです。

問いは、必ずしも「問い」という形で現れるわけではありません。不安、心配、怒り、違和感、好奇心、ため息――そうしたものの中に、すでに問いはあるんです。

私たちは、本当はもう問いに出会っているんだということを、声高に言うということがまず必要だと思います。問いを見つける方法を教えるというよりかは、あなたが感じているものは問いなんだと、すでにあるものに気づいてもらうということを実践の中で示したいと思っています。

――では、「良い問い」とは何でしょうか。

私はあまり「良い問い」という言い方はしませんが、あえて言うなら、その人の体重が乗っている問いだと思います。外から与えられた「正しそうな議題」ではなく、自分が本当に気になっている問いです。

たとえば「良いリーダーとは何か」という問いは、一見もっともらしいですよね。でも、いざ「本当にそれを考えたいですか」と聞くと、「実はそこまでではない」となることもある。そうすると、その問いにはまだ体重が乗っていないんです。

それこそ、最初は「良いリーダーとは何か」でもいいんです。そこから、「そもそもリーダーって何」「これってつまり何を問うているんだっけ」と、問いが派生していくうちに、みんなの体重が乗ってくるものです。そのような、人を巻き込んでいくような問いというのは、良い問いと言えるのではないかと思います。

問いは、出した瞬間に完成している必要はありません。問いはあくまで出発点なんですよね。Q&Aのようにきれいに完結するものではなく、問いが問いを呼び込んでいくものです。答えが一つに定まっていなくても、見えるものが増えていたり、自分の中で何かが動いていたりする。それは十分に豊かな成果だと思います。だから、問いをうまくつくること以上に、問いを育てる時間が大事なんじゃないかと思っています。

「なぜ」ではなく「そもそも」を問い直す

――企業の現場では、「なぜそうなるのか」「なぜできないのか」と問うことはあっても、「そもそも」を問い直す機会は少ないかもしれません。

そうかもしれませんね。「なぜ」は大事な問いなんですけど、ときに言葉を閉じてしまう問いにもなりやすいんです。「なんでそうしたの?」「なんでやりたいの?」って聞かれると、人はうまく答えられなかったり、防御的になったりすることがある。

でも、「そもそも、それって何なんだろう」とか、「これはどういうことなんだろう」と問い直すと、人は安心して話せたり、みんなでその問いの前に立ちやすくなったりするんです。

――問いの向き先が変わるわけですね。

そうですね。
ビジネスの現場というのは、どうすべきかという解決型の問いがやはり割合として非常に多いと思います。一方で、哲学的な問いというのは「そもそも」を問う、つまり矢印が逆なんですよね。積み上げるのではなく掘るというのが、哲学的なアプローチと言えるかもしれないです。

前提を問い直すことは、後戻りとか非効率に見えるかもしれない。でもそれは後退じゃなくて、見えなかったものが大量に見えるようになる不可欠な過程です。

いま自分たちがどこに立っていて、何を前提にしているのか。それを確かめることは、遠回りに見えて、実はすごく大事なんです。課題解決においても必要な要素なのではないでしょうか。

対話は「話す場」ではなく、「ききあう場」

――永井さんは哲学対話を各地で実践されています。哲学対話とは、どんな場なのでしょうか。

私は、対話を「ききあう場」と言い換えています。「きく」というのは、他者の声を聞くだけでなく、自分の声を聞くことでもありますし、沈黙を聞くことでもあります。

対話は「話す」ことが醍醐味だと思われていますが、実際に対話の場では、みんな話すのが上手ではなくなっていきます。「なんでこんなことを言っちゃったんだろう」「うまく言えない」「とりあえず終わります」というふうになる。でも本来、私たちはそういうものだと思うんです。

会社では、言語化すること、結論から言うこと、など効率が求められます。それ自体を否定したいわけではありません。ただ、それが過剰に求められすぎている。だからこそ、うまく話せなくてもいい、沈黙も含めてききあえる場が必要だと思っています。

また、対話は「すべきだ」と思われていても、「したい」と思っている人は案外多くありません。面倒くさい、怖い、知らない人とはやりたくない――そう感じるのは自然なことだと思います。

一方で、対話の場を開くと、大人、特に企業で働く方たちが、涙を流すことがあるんです。「こんなふうに聞いてもらったのは初めてだ」「こういう場が本当は欲しかった」と。その姿を見るたびに、人に涙を流させる社会って何なんだろう、と思います。このような現実があることから、私は対話の実践を通して探究を続けています。

――お話を伺っていると、哲学対話は、ビジネスで求められるコミュニケーションとは逆のものにも感じられますが、どのようにお考えですか。

その感覚はよくわかります。結論を出さなければならない場面は当然ありますし、それは必要です。

私はビジネス的なコミュニケーションを否定したいわけではありません。ただ、問題はバランスだと思うんです。ビジネス的なコミュニケーションだけに偏りすぎている。私たちは、ビジネスパーソンである前に人間です。すぐに仕事に結びつかなくても、「私の問いを話したい」「相手のことを知りたい」「聞きたい」という時間があっていいはずです。

実際、対話をすることによって関係性がやわらぎ、普段の会議や仕事にも変化が生まれることはあります。仕事に直接関係ないような問いが、結果として組織の大切なテーマにつながっていくことも少なくありません。すべての問いはつながっていますから。

永井 玲衣 氏

問いの前では、人は対等になれる

――組織の中では、上下関係が対話を難しくすることもありますが、組織での対話において重要なことは何でしょうか。

対等性はとても重要だと思います。ただ、それを人が無理につくり出すというより、哲学がつくり出してくれる面があると思っています。

なぜなら、問いの前では人は対等だからです。たとえば「なぜ生きるのか」という問いに、最初から正解を知っている人はいません。役職や立場を超えて、みんなが「わからない」というところに立てる。そのことが、組織の中に一時的な対等性を生みます。

実際、ある企業で管理職の方が「責任を取るってどういうことなんだろう」と問いを出した瞬間、場の空気が変わったことがありました。部下の方たちは、その人の立場ではなく、一人の人間としての問いに触れたからこそ、一緒に考えたいと思えたのだと思います。

問いは、立場の違う人たちを自然と同じ場所に立たせてくれます。そこに私は希望を感じています。だからこそ、哲学対話を続けたいと思うんです。

――その対等性を支えるために、場づくりで工夫していることはありますか。

私は対話の現場で、自己紹介を一切しないんです。誰が偉い人なのか、どの部署の人なのかといった普段の役割をいったん脇に置いて、この場限りの名前で参加してもらいます。

また、対話を重ねていくと、最初は「これでいいんでしょう」といった固い問いが多かった場でも、だんだんと等身大の問いが出てくるようになります。そうした変化が、組織の空気やコミュニケーションを少しずつ変えていくのだと思います。

ただ、対話は魔法の時間ではないので、たった1回で組織の雰囲気がガラリと変わるわけではありません。1回の対話に期待しすぎず、継続していくことも大切です。

AI時代だからこそ、人と人との対話の場をつくる

――AI時代において、「問うこと」や「対話すること」の意味は、どう変わっていくのでしょうか。

AIについて問われるたびに思うのは、私たちは今、AIを人間らしくすることに夢中になっていると思います。一方で、人間を非人間化する社会にも生きていて、尊厳というものが奪われた社会にも生きさせられてしまう。そういう社会の中で、まず必要なのは、人間を人間に返すことではないかと思っています。

AIとどう対話したらいいか、ということはよく聞かれます。でも、その前に、なぜ人間と対話しないのかという問いのほうが、私には大きいですね。人間と対話しないで、AIとどう対話するかという議論が増えていることに、少し危機感を覚えています。

――AIのほうが本音を言いやすい、と感じる人も増えているのではないでしょうか。

それもよくわかります。でも、だからこそ私は、「なぜAIには本音を言えるのに、人には言えない社会になってしまったのか」を問いたいんです。

AIを使うこと自体を否定したいわけではありません。それによって救われている人も確かにいる。ただ、人との対話に代わるものとしてAIだけが残っていくのだとしたら、それはやはり危うい。

一方で、人との対話は多声的な場なので、わかる、わからないというようなことを超えていくんですよね。考えは全然違うのに共通点を見つけたり、新しい考えに出会って衝撃を受けたり、そういう意味での豊かさに出会えます。それは、元気の出ることでもあると思います。他者性が流れることによって、心の可動域が広がっていくイメージです。

実際、学生たちと対話の授業を重ねた時、最初は反射的にChatGPTに答えを聞いていた人たちが、最後には「AIは沈黙がないから腹が立つ」と言ったんです。すぐ答えが返ってくることだけが価値ではない、と気づいたんですね。タイムパフォーマンスやコストパフォーマンスが重視される場面もあるけれど、それだけが唯一の価値ではない。そのことを、対話の経験が問い返してくれるのだと思います。

コロナ禍以降、人と人とのつながりや関係性が大きく傷ついたと感じています。だから私は、対話は修復でもあると思っています。今こそ、人間が人間でいられる場を意識的につくっていく必要があるのではないでしょうか。

見えていない奥行きを信じて、耳を澄ます

――これからの時代に必要な力は何だと思われますか。聞く力や、問いを立てる力の重要性を感じる一方で、それをどう捉えればいいのか難しさもあります。

私は「スキル」という言葉より、「態度」という言葉をよく好んで使います。スキルというと、どうしても手順化されたテクニックのようになりがちです。人間はもっと複雑で多様で、ままならない存在だと思うんです。

たとえば「聞く力」も、スキルとして整理しすぎると、「そもそも聞くってどういうことなんだろう」という問いが差し挟まれる余地がなくなっちゃう気がするんです。
私は、ききあう場が大事だと言いながら、実は「よく聞くということはどういうことなのか」ということについては、ずっと探求の途中なんですね。

私は、谷川俊太郎さんの『みみをすます』※という詩が好きです。その詩は「みみをすます きのうの あまだれに みみをすます」という言葉で始まります。昨日の雨だれは、普通は聞こえませんよね。でも、それでも耳を澄まそうとする。その態度が大事なのだと思います。

相手には、まだ自分にも見えていない奥行きがあるかもしれない。自分の中にも、まだ言葉になっていないものがあるかもしれない。そうした奥行きを信じて、耳を澄ますこと。これが、これからの時代にますます大切になるのではないでしょうか。

※谷川俊太郎『みみをすます』(福音館書店)1982年

まずは人材育成に携わる人たち自身が、対話を経験すること

――最後に、人材育成に携わるご担当者様へのメッセージをお願いします。

育成に関わる人たちは、どうしても「相手に何を経験させるか」「どう成長させるか」を考えがちです。それ自体はとても誠実なことですし、真摯な姿勢だと思います。

でも、学校でも企業でも同じなのですが、育てる側の人自身が、聞かれたり対話を経験したりしていないまま、相手にだけ対話を求めると、どうしてもちぐはぐな場になってしまいます。無理に輪になって、短時間で答えを出させるような、形だけの対話になってしまうこともある。

だから私は、まず育成に関わる人たち自身が、対話の場を持つことが大事だと思っています。人事の方であれば、人事部の中でこそ声をききあってほしい。支援する人、育てる人、ケアする人こそ、先に声を聞かれる必要があるからです。

ケアの現場で「ケアする人を誰がケアするのか」と言われるように、人材育成に携わる人たちもまた、聞かれるべき存在です。そこが満たされてはじめて、本当の意味で人を育てる場やききあう場がつくられていくのだと思います。

(2026年5月15日 取材・撮影)

永井氏のお話から見えてきたのは、問いを立てることに特別なスキルが必要なのではなく、誰もがすでに問いを持っているということです。そして、その問いをみんなでききあいながら育てていくことが、組織の中に新たな気づきや対話を生み出していくのだと思います。
生成AI時代のいま、私たちは早く答えを得ることや、正解を求めることに意識が向きがちです。だからこそ、他者の声と自分の声を「聞くこと」、物事の前提を「問うこと」が、これからの人材育成においてますます重要になっていくのではないでしょうか。

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