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  3. 【特別公開】人は間違えるもの。だから仕組みで守る。~人の非合理性を前提とした不祥事に強い組織~

事例・コラム

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問題提起: はじめに

少し前のことですが、新聞報道などで次のような記事を目にしました。それは、ある企業の製造所において、クレーンの定期自主検査(荷重試験)が実施されていなかったことから、厚生労働省が技能実習生の新規受け入れを停止し、併せて安全対策義務違反として罰金を科した、という記事です。


一見すると、これはその企業の点検の怠慢や法令違反といった出来事のように見えるかもしれません。しかし、実際にはもっと根深い問題が潜んでいます。それは、点検は行われていなかったのではなく、“行われたことにされていた”のです。そう、形式だけが残り、実態が失われるという「形骸化が常態化」していたのです。果たして、こうしたケースは、この会社だけの問題でしょうか。


この10年を振り返ると、思わず「どうしてしまったのか」と嘆きたくなる日本企業による不祥事が少なくありません。品質や安全に関する記録が、実態とは異なる内容で作成・提出される事例は、決して一部の企業に限られた話ではないのです。たとえば、免震・制振装置や航空部品、建材など、安全性や耐久性などの性能試験が重要な業界で、基準を満たさないデータを「見栄えよく」修正したうえで出荷していたとの報告もありました。はたまた、完成検査や中間検査でも、本来は資格を持つ検査員が行うべき工程を、現場の都合で無資格者が代行し、正規の手順を経たかのようにデータを整える運用は、決して簡単に忘れられるものではありません。


これらの行為は、単なる倫理上の逸脱ではありません。制度が機能しているように見えても、その裏で“形を整えること”そのものが目的化してしまう構造の表れです。これらの事例は、規模や業界に関係なく、『報告』と『実行』のあいだに大きなズレが生まれやすいことを示しています。


こうした不祥事の背景には、「人は常に合理的に動くはずだ」という前提を疑わない制度設計と、「まずは進めろ」といった現場文化があります。しかし、事故は例外や個人の怠慢によって起きるわけではありません。むしろ、私たちが日常的に陥りやすい“よくある行動のクセ”が積み重なった結果だと考えるべきです。


人は合理的であろうとしながらも、つい先延ばしにしてしまう、見て見ぬふりをしてしまう、まわりの空気に合わせて動いてしまう。そんな、ごく普通の“人間らしい行動”が、気づけば不正や事故へとつながってしまうこともあるのです。


この記事では、「非合理性」「ヒューマンエラー」「ノーマル・アクシデント理論(NAT)」「高信頼性組織(HRO)」「ナッジ理論」といった視点をもとに、どうして人や組織はミスを繰り返すのか、そしてその連鎖をどうすれば断ち切れるのかを、一緒に考えてみたいと思います。

人はなぜ“合理的に動けない”のでしょうか?──非合理性の理解から始めてみましょう

私たちは「ちゃんと考えて行動しているつもり」でも、実際には感情や慣習、周囲の空気に影響されていることが少なくありません。行動経済学では、こうした傾向を「非合理性」と呼びます。代表的な理論として、ハーバート・サイモンの「制限合理性」や、ダニエル・カーネマンによる「ヒューリスティクス」の研究があります。


もともと「人は合理的に動く」という前提が制度のなかで使われてきたのは、その方が計画が立てやすく、責任の所在も明確にしやすいからです。しかし、現実はそんなに単純ではありません。人は時に、不安や思い込み、忙しさ、まわりの雰囲気に影響されて判断を間違えてしまいます。だからこそ、制度やルールを「合理的に動く人」に合わせて設計してしまうと、知らないうちに「やっているふり」や「空気に従う」文化が定着してしまうのです。


ここで一度立ち止まって考えてみたいのは、「人は合理的に動くはずだ」という前提の危うさです。多くの制度は、『人間は間違いを認識し、自ら正す能力を備えている』という期待を前提に設計されています。つまり、ミスが起きても、関係者がその誤りに気づき、責任をもって訂正し、報告するものだという見立てがあるのです。ところが現実には、人は誤りに気づかないこともあれば、気づいていてもそれを口に出せない空気や仕組みに縛られていることも多くあります。その結果、間違いが見過ごされたり、報告が後回しにされたりすることが組織の中で常態化していきます。

このような制度の前提にある考え方が、実際の人間の行動とズレているために、『やっていること』と『やっていることになっていること』が混同され、不祥事を生む温床となっているのです。


たとえば、「とにかく期限が迫っているから」「今までもそれで回ってきたから」「ここで立ち止まるのは、周りに迷惑だと思われるかも」といった声にならないプレッシャー。誰もが不安を感じながらも、何となく“前に進めること”が優先されてしまう。そんな経験は、決して特別な職場に限ったことではないでしょう。そこでは、「人は常に合理的に判断できる」という制度の前提と、「多少の違和感は飲み込め」という現場の文化が、無自覚のまま絡み合っています。制度は『点検すれば問題は起きない』『報告すれば足りる』という前提で設計され、人が規則通りに動くことを当然視する仕組みになっているのです。


一方、現場では「とにかく止めずに流す」ことが求められ、実施の質よりも「済んだこと」にすることが優先されがちです。本来は安全や品質を守るための工程も、いつの間にか「チェックをするための儀式」に変わってしまう。そうして、実態と報告書との間に少しずつずれが生まれ、それが常態化してしまうのです。


「ちゃんとやってるか?」ではなく、「ちゃんとやったことになっているか?」が問われる組織。そんな構造が、気づかぬうちに私たちの足元に広がっているのかもしれません。

自主検査が形骸化する構造─意味の希薄化とナラティブ、そしてヒューマンエラー

自主検査が形骸化してしまう背景には、いくつかの認知的・文化的・構造的な要因が重なっています。第一に挙げられるのは、「点検行為の意味が薄れている」ことです。本来は安全を確保するための重要な活動である点検が、「やること自体が目的」「とにかく記録を残すだけの事務作業」として認識されるようになると、その本質的意義が見失われてしまいます。


次に、“意味の希薄化”が進むことで、現場で語られる物語、つまりナラティブ(narrative)も変質していきます。「問題が起きたことがないから大丈夫」「帳尻さえ合えばよい」「誰も怒られなければそれでいい」といった語りが共有されると、点検という行為そのものが“安全をつくるためのもの”ではなく、“形式的な習慣”として定着してしまいます。
ナラティブとは「語り」や「物語」を意味し、心理学者ジェローム・ブルーナーによると、人は出来事を物語として理解し、意味づける存在なのです。組織においても、「なぜそれをするのか」という本来の目的を語るナラティブは、人の行動を方向づける大切な力を持っています。


その語りが「これは昔からこうしている」「とにかく前に進め」といった表面的なものに変質してしまうと、行動の意味は薄れ、やがて形式だけが残るようになります。点検や報告も、目的のために行うのではなく、「やったことにするための作業」に変わってしまうのです。


だからこそ、組織がどんな語りを共有しているか、そしてその語りが本来の目的を語り続けているかどうかが、組織の健全な文化を根底から支える鍵になるのです。


加えて、このような現場の感覚の背後には「心理的距離(psychological distance)」という認知的な働きも影響しています。
心理的距離とは、ある出来事や対象が自分にとって「どれだけ遠く感じられるか」を示す概念で、社会心理学者トロープとリーバーマンによって提唱されました。文字通り、物理的な距離だけでなく、時間的、社会的、仮定的な隔たりも含まれます。この距離が大きいと、人は物事を抽象的に捉え、関心や危機感が薄れやすくなります。たとえば、安全点検も「自分には関係ない」「今すぐの話じゃない」と感じると、行動の優先順位が下がってしまうのです。心理的距離を意識することは、日常のリスクを“自分ごと”として捉えるうえでとても重要です。


つまり、事故やリスクが“自分ごと”として捉えられない場合、人はそれに対する行動の優先度を下げてしまいます。「遠くで起きること」「自分には関係ないこと」として認識されると、点検の必要性が実感されず、行為がなおさら形骸化してしまうのです。


では、このような“意味の喪失”や“語りの変質”が起きた結果、どのようにして事故を防げない組織になっていくのでしょうか。次に、そうした状況下でミスがどのように見過ごされ、拡大していくのかを構造的に示す視点として、スイスチーズモデルを紹介します。

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後半では人の弱さを武器に変える、強い組織が最後にたどり着く答えを解説します。

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