産能大の人材育成理念

プロフェッショナル人材の育成が、能率向上のカギを握る

創立者上野陽一が語る、人材育成の必要性

本学の創立者上野陽一(1883~1957年)は、企業の能率向上というニーズに実践で応える、 日本最初のマネジメント・コンサルタントでした。科学的管理法を通じて社員を再教育(業務形態や工場のオペレーションの改善など)することで能率が格段に上がるということを一般社会に証明し、普及させていきました。
こうした活動を通し、上野陽一は、業務特性に応じた体系的な教育を社員に施すことの重要性を痛感するとともに、多く人に学ぶ機会を与え、絶えず教育をしていくことの必要性を訴えたのです。
つまり能率を上げるということは、人一人ひとりがプロフェッショナルでなければならない(一部の人がプロであればよいわけではない)ということを意味し、こうしたことはいつの時代においても普遍的に必要なものであると世に問いかけたのです。

原点は、「人の『もちまえ』を十分に発揮させること」

科學的管理法は、出來合のものを買つてきて、すぐに使ふというワケにはいかない。會社とか、工場とか、事務所とかいふものは、澤山の個人が集まつて、出來てゐるものであり、その個人はメイメイちがつた欲望なり、知識なりをもつてゐるものである。随つてこれらが互に調和して、渾然たる一體の働きをしなければならない。それには有力なる中心人物がゐて、これを指導していかなければ、科學的管理法の實施は望めない。

「能率百話」上野陽一著 千倉書房(昭和8年)P123より
上野陽一

上野陽一の活動は、日本における産業能率研究の歴史です。

1919 早稲田大学にて広告心理学を教授、ライオン歯ミガキ(小林商店)広告部長中尾氏と知り合う。
1920 ライオン歯ミガキ工場の業務能率の研究を行う。
1921 小林商店での成功事例を大阪で発表。クラブ化粧品(中山太陽堂)、福助足袋社長よりコンサルティング依頼を受け、工員の削減、高工賃体質、省スペース化による生産などに着手、販売価格の低下を実現させる。
1921 産業能率研究所発足準備で欧米視察に向かう。
1923 不景気のおり、能率が世間で注目を集める。大阪の造幣局より臨時能率調査課長に任命される。生産20%アップ、人員20%減、スペース31%アップ、運搬距離29%減の成果を収める。
1925 満州鉄道を能率指導。日本産業能率研究所を設立。
1929 白木屋の嘱託として指導(初の商業関係のコンサルテーション)
1932 「経営作戦」、「(上野式)商店経営法」、「模範仕入販売法」、「計画経済と管理法」、「テーラー全集」を出版。
1934 臨時産業合理局の小売業改善調査委員会の委員を依託される。
1942 日本能率学校を設立。海軍功績調査部の嘱託となる。250万人の功績に関する書類の整理法を指導。
1945 「産業能率講座」として、作業研究、工程管理法、生産技術などの講座を夜間に開催する。
1947 日本能率学校夜間部が再開。GHQの任命により内閣行政調査部顧問に就任のちに人事委員、人事官に就任。
1950 産業能率短期大学開設。
1951 上野の指導で人事院は、新しい監督者訓練の定型コース(JST)を開発した。
1955 インド政府の洪水予防、動力開発の業務指導のためコンサルタントとして国連から要請を受け、インドへ向かう。

テーラーと上野陽一

テーラーの書物「The principle of scientific management」、「Shop management」の翻訳をテーラー全集1で手掛ける。 テーラーの4人の弟子と親交が深く、テーラーを師として仰ぐ。また上野自身も、科学的管理法の普及をライフワークとした。

本学の総合研究所が提供する社会人教育プログラムは、創立者上野陽一の人材育成理念を継承し、時代ニーズに合わせ具現化したプログラムです

産能大の人材育成プログラムは、上野陽一が提唱する「人のもちまえを十分に発揮させること」の一文を原点に設計されています。 また、プログラムは業務の現場にこそ焦点を絞り、いかに所属する企業・組織に貢献できるかという視座を持つことで、より現実的な立場から能率向上を捉えています。
総合研究所が提供する社会人教育プログラム