企業のグローバル化:海外赴任に伴う子供の教育問題・異文化受容について(1)

企業のグローバル化が進むと、会社のトップが突然外国人になり、語学を含めて職場環境がすっかり変わる…という企業も増えるだろう。しかし、やはり今後も増加するのは、大企業・中小企業を問わず海外赴任を命じられるというケースである。
この場合、内示を受けてから数ヶ月での赴任も珍しくないため、一通りの海外赴任向け研修受講と並行して家の引越し、子供の学校の事務処理をバタバタと済ませ、赴任国に向かうこととなる。
新しい環境、それも外国で仕事をしながら自分自身が適応をしていくのも大変だが、家族がいるとその家族の異文化受容がスムーズに行われるかどうかが非常に重要となってくる。なぜなら、連れ合いがノイローゼになって帰国せざるを得ないとか、子供が外国の学校になじめず登校拒否になってしまっては、仕事の遂行も難しくなるからだ。
筆者は、1972年3月、当時某新聞社外信部記者であった父の赴任に伴い、パリに行った。小学1年生を終えたばかりだった。

父は既に1年前にパリ支局特派員として単身赴任していた。なぜそうなったのかというと、私がパリに行くことを嫌がったからだ。
どうしても1年間は日本の学校に通いたいと主張したのだ。
なぜ日本の学校に通うことにこだわったのか、その理由は正直覚えていない。が、幼い私の意見を聞いてくれ、父は母と私を日本に置き、一人パリに旅立った。「小学1年生を終えたら、ママとパリに来るんだよ!約束だよ。」と言い残して。

当時のパリにはまだ日本人学校が設置されておらず、インターナショナルスクールか現地校しか選択肢は無かった。
インターナショナルスクールの学費が非常に高額であることもあっただろうし、家から歩いて通える学校ということで、パリ8区の現地校に通うことが決まったのは、パリ到着から1週間後のことだった。

ここに、父が1979年、勤務先新聞社から上梓した「あばたとえくぼ」という書籍から、私が初めてパリの小学校に通うことになった日の場面を幾つか抜粋する。
第1章【学びと遊び】、「娘の入学」というサブタイトルが付いている箇所である。

1972年4月、復活祭の休みが終わり、いよいよ一人娘、千草がパリの小学校に転校する日がやってきた。
学校は私たちのアパートから歩いて十分余り、パリ八区ビアンフザンス通りにある市立ビアンフザンス女子小学校。
復活祭前までのヨーロッパの冬特有の陰うつな天気がウソのように、真っ青な空の下で春の日差しがまぶしいほどの朝だったが、学校に向かう千草と付き添いの私たち夫婦の気分は青空どころではなかった。
小学一年の終了式を済ませ一週間前にパリに来たばかりの千草は、まったく言葉の通じない学校に行くという不安と心細さにふるえているようだった。なんとか気を引き立てようと話しかけるのに「ウン」とうなずくだけ。[中略]

前日、八区の区役所で転校手続きをし、この朝を迎えたのだが、学校に近づくにつれ「教室で泣きださないだろうか」「もう学校はイヤといい出したらどうしよう」と不安はつぎつぎに湧いてくるのだった。[中略]

幸いだったことに、千草は学校忌避症を起こさなかった。
学校に送り込んだものの、午前の授業を終えて帰ってくる千草がどんな感想を持ったかを聞くまでは、気が気ではなかった。
迎えに行った妻は「学校は面白いといっているヮ」と支局に電話してきた。ヤレヤレ、最初の難関突破という気持ちだった。なんでもクラスは二十数人、女の子ばかりというのがよかったようだし、日本人ははじめてとあって、珍しさも手伝いみんな親切だったらしい。
子供というのは敏感なもので、受け入れ側に“害意”のないことを、言葉は通じないにしても本能的に感じたのであろう。
ともかく娘のパリでの学校生活は、まずまず順調にスタートしたのである。

次回は、こうした親の気持ちとは裏腹な当時の子供としての筆者の気持ちを述べていくことにしよう。

(学校法人産業能率大学 経営学部 准教授 武内 千草)