企業のグローバル化:海外赴任に伴う子供の教育問題・異文化受容について(5)

前回は、筆者が帰国してから経験した日本での再適応の難しさについて述べた。15歳の私には、フランスでの生活を否定することしか日本で適応する術がなかった。

「実は半分フランス人の日本人」である私が、その上にもう1つ日本人の仮面をかぶることに成功したと自認し始めた頃、東京のI私立高校に進学した。
この高校は、当時増加していた帰国子女の受け入れを目的として1978年に創設され、私は3期生だった。I高校は2014年現在、100カ国以上の国から帰国生を受け入れており、全校生徒の三分の二が帰国子女、三分の一が一般生徒という構成である。
私が入学した1980年当時も同じ構成で、キャンパスでは英語が飛び交っていた。15年間日本で生活してきた一般生徒のカルチャーショックは想像の範囲を超えるが、フランス帰りをひた隠しにしていた私にとっても、何の躊躇もなく自分の帰国子女ぶりを発揮している同級生や先輩達の姿は驚きだった。

高校1年生。日本にあってグローバルな環境に置かれ、私は完全なカオス状態に陥っていた。英語圏からの帰国子女が多かったので、グローバルとは言え圧倒的なAmerican cultureの中で、各国のcultureと日本のcultureが混在し、どこに自分を置けばいいのか立ち位置が全くわからなくなってしまったのだ。
あまりにもオープンなアメリカ帰りの同級生は羨ましくもあり、一方向で苦手だと感じた私はフランス人の私だったのだろうか、日本人の私だったのだろうか…。
高校2年生。どのように自分自身を解放し、表現していいのか相変わらずわからなかったが、どちらにしても周囲は私を「フランス帰りの千草」としてみなしていることがわかってきた。
フランス語なまりの英語はコンプレックスだったが、アメリカ帰りの同級生に「フランス語なまりの英語はニューヨークではとっても格好いいんだよ!」と言われ驚いたり、「フランス帰りってなんか素敵!何してもフランスの香りがするよね!」と言われたりすることを、少しずつ肯定的に受け入れられるようになってきた。
十把一絡げにしていた英語圏からの帰国子女も、滞在年数や滞在国などにより英語のレベルは異なること、Queen’s English speaker に対してAmerican English speakerが抱く感情、他のヨーロッパ言語に対する憧れ等があることがわかってきた。
勉強が全般的に非常に出来る一般生に追いつきたいという競争心も生まれたが、その対象にされた一般生は逆に、帰国子女に対する複雑な気持ちを内包していることもあった。あまりにも個性が強い面々に囲まれ戸惑っていた時期をやっと脱し、「みんな違って、それでいいんだ!」と実感できるようになっていた。

高校3年生。受験科目を英語ではなくフランス語にすると決心した時あたりから、フランスでの生活は自分にとってマイナスなことばかりではなく、プラスのことも沢山あるのだと認められるようになった。
国語・社会又は数学・英語で受験する生徒が圧倒的である中で、国語・社会・仏語で受験する生徒は1学年5名位だったと記憶している。その中の1人であることを、少しだけ誇りに思える自分がいた。

こうやって、高校生活3年程かけて、日本人である自分、フランスで教育を受けたフランス人の部分が少しずつ溶け合い、自分のなかでバランスが取れるようになった。
母校I高校の2012年度学校案内に筆者が投稿した「卒業生からの一言」から、この高校生活でのre-identificationの過程を描いた部分を抜粋しよう。
タイトルは「ゆっくりと自分作りができました」である。

『フランスからの帰国子女だった私にとって、携帯電話、PC、インターネットなどがまだ無い時代、2つの国の文化や価値観を自分の中で共存させるのは難しい作業でした。 I高校では、どんな価値観も否定されず、ゆっくりと自分作りをする手伝いをしてくれる先生や友達、環境が整っていたと、感謝することばかりです。』

I高校の宣伝みたいになってしまったが、どこにいるにせよ、帰国した際に海外体験と自分の中の日本を再構築するre-identificationに必要なのは、子供がどんな状況にあっても否定しないこと(例えあまり上手く適応出来ていなかったとしても)、出来れば肯定すること、一歩進んで褒めること、話すこと、そして何よりも悩む時間と空間のゆとりを与えることが必要なのではないだろうか。

次回は、「海外赴任に伴う子供の教育問題・異文化受容について」のまとめをして、帰国子女の現状と課題を考えたい。

(学校法人産業能率大学 経営学部 准教授 武内 千草)