企業のグローバル化:海外赴任に伴う子供の教育問題・異文化受容について(4)

前回のコラムでは、帰国が決まった際の筆者の状況を紹介した。私は帰国をとても楽しみにしていたのだった。

7年ぶりに日本の地を踏んだ初日、宿泊先の東京のホテルのエレベーターに閉じ込められた。フランスにはない「地震」というものだった。
フランス語で「tremblement de terre」と言うのは知っていたが、経験したことがなかったので本当に日本は怖いところだと思った。
翌日、大阪の祖父母宅でお風呂に入れと言われ、お風呂場に一人で行き、途方に暮れた。お風呂の入り方がどうしてもわからなかったのだ。15分ほど思案していたが埒が明かず、また洋服を着て部屋に戻った。
湯船につかる前に洗い場で洗うという習慣さえ忘れてしまったわが子を見て、母は愕然としていたが、本人は寒いし、間が悪いしでこれからの日本での生活に非常に不安を覚えた。

当時、湘南のF市に家があり、地元の公立中学校に編入した。帰国子女を受け入れるのは初めてということで、「フランス帰りの女の子」編入のニュースは全校生徒に知れ渡っていた。
登校初日、私はまるで動物園のパンダのような見せ物と化していた。「よろしくお願いします。」と自己紹介をすると、「日本語しゃべれるんだ!」とどよめきが起こり、休み時間には私を一目見ようと他の学年やクラスの生徒達が廊下に溢れていた。私は怖くてトイレにも行けなかった。

このようにして日本での学校生活は始まった。 「フランス語をしゃべって!」とクラスメートに頼まれ、嫌々ながらしゃべると、後で「自慢している」と陰口を叩かれた。
「トイレに一緒に行こう!」と誘われた際、「えっ?一人で行けるから大丈夫。」と答えたらそれから口も利いてもらえなくなった。
極めつけは、ホームルームで「誰かこの件で意見はありませんか?」と委員が言うので、手を挙げて意見を言ったら、ホームルーム委員に怪訝な顔をされ、先生にさえ「和を乱す」と言われてしまった。
フランスでは、何も言わないのは自分の意見が無いとみなされ、とにかく自分が考えている事を言葉で表すように教育されてきた私には、なぜ自分の意見を皆の前で言うことが和を乱すことになるのか皆目わからなかった。このような転校生は皆には目障りだったのだろう。
それから半年間ほど、色々な場面で陰湿ないじめにあった。私はいじめられることに関しては果敢に戦ったと自負しているが、いじめが収まった頃の私は、自分の中の「フランスらしさ」を極力消すようになっていた。
その当時のわたしにとっては、7年間のフランスでの生活はマイナスな要素でしかなく、フランスに私を連れて行った両親を恨んだ。
フランスでの生活が始まった際は、周りとコミュニケーションが取れないのは言葉の壁ゆえだった。しかし、日本での生活では、言葉は通じるのにコミュニケーションが取れない苦しさがあった。

「本当の自分」を隠して生きている感覚、どこにいても「自分の居場所」を見つけられない「異邦人」の感覚…。これらの感情を誰に訴えることも出来ず、神経性過敏性腸症になってしまった。
学校での勉強は順調だったので、両親は私が苦しんでいることにあまり気がついていないようだった。
母が友人に「千草も順調に日本の生活に適応しているようで、成績も悪くないし、友達も出来たみたいで良かったわ。」と電話で話しているのを聞いた日の夜は流石に布団の中で泣いてしまった。

私がどこの高校を受験するかで両親の意見は割れていた。父は県立の進学校を勧めたし、母は帰国子女受け入れを目的として創設されたばかりの私学を勧めた。
私は、フランスに行っていた経験を全て消し去りたいと思っていたので、県立高校を第一志望とし、母が勧める高校を滑り止めとした。結果、県立高校受験は失敗し、私は東京の私立高校に進学することになった。

次回は、この高校に進学した私が、少しずつフランスでの経験を受け入れていく段階をご紹介したい。

(学校法人産業能率大学 経営学部 准教授 武内 千草)