企業のグローバル化:海外赴任に伴う子供の教育問題・異文化受容について(3)

前回まで2回にわたり、父の海外赴任に伴いパリの現地校に通うことになった筆者の思いと、それとはくい違う親の思いについて述べてきた。
今回は、フランスでの生活が当たり前になった頃、帰国が決まった時点での筆者の状況を紹介する。
1970年代でも珍しいケースだったろうが、7年にも及んだ海外赴任生活の中で、父は一度も帰国しようとしなかった。「ヨーロッパ中の国を知りたい!」という、新聞記者としては真っ当かつ単純な理由からで、休みが取れると新しい国へと旅行に連れて行ってくれた。
これは非常に貴重な体験であったが、もともと7歳までしか日本での生活を知らない私を、どんどん「非日本人化」させるという結果をもたらす原因ともなった。
現在のヨーロッパ主要国では、DVDやビデオレンタルの会社もあるし、契約さえすれば日本のテレビ番組も視聴可能だ。
他にも、インターネット、スカイプなど、日本とオンタイムで繋がっていられる方法は多種多様だ。逆に、異国の地で出来るだけ早く環境に慣れるために、日本からの情報をシャットアウトしようとしても、その方が難しいかもしれない。
だがその当時の私と日本との繋がりは、祖父母から時々送られてくる手紙と書籍、教育熱心な叔母が毎月送ってくれた「りぼん」と「小学…生」という漫画と雑誌のみ。
同年代の日本人の友人も10数人しかいなかった。そういった環境下で、義務教育をフランスの現地校で受けた私が「フランス人化=非日本人化」していったのは自然の流れだろう。
そしてある日突然(もちろん実際には父は内示を受けており、突然ではなかったのだが)、帰国が決まった。

「やっとこの日が来た!」私はそう思った。フランスでの学校生活で困る事は無くなっていたが、言葉がわかるようになると、微妙なニュアンスまでわかるようになった。そして、色々な場面で人種差別されていることに気がついてしまった私に、「フランス人には負けたくない!」という猛烈な競争心が生まれてしまっていた。そのために、勉強もピアノも頑張った。
フランス人以上にフランス人作家の本も読んだ。そういった肩肘を張るのにくたびれてしまっていたのだ。

日本の勉強に対する不安はもちろんあったが、喜びの方が勝っていた。
フランス人に対して戦いを挑み続けることからも解放されるし、好物のおせんべいや、明太子や、なめこが好きなだけ食べられる、とか、「りぼん」以外の漫画を読むことも出来るといった14歳らしい(?)感情もあった。
しかし、「日本人の顔をしている半分フランス人」となった私は日本を知らな過ぎた。甘かったのである。

次回は、帰国してから私が経験した逆・異文化体験とその中での自分探し、re-identificationについて述べていきたい。

(学校法人産業能率大学 経営学部 准教授 武内 千草)