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~part1その4:内省する視線<後編>【ビジネス思索塾】

(内省する視線<前編>より続く)

個人の論理に立てば、変化の価値はさらに怪しげである。企業という意図的な目的達成をめざす組織では、変化に意味があるとしても、個人にとっては、変化や新しさにどれほどの価値があるのか。会社では要求される役割を演じねばならず、必要に迫られて変化に取り組むにしても、役割を離れた自分自身までもが組織の論理に染まる必然性はない。

ひとりの人間にとって、変わることと変わらぬことと、どちらが大切なのだろう。変わらぬスタンス、変わらぬ判断基準、変わらぬ生活信条・・・・・

変わらない自分自身の心棒がないかぎり、絶え間ない変化を繰り返す漂流者にすぎなくなるではないか。変わりつづけるのが変わらぬ自分の信条だと言い募るのはいかがなものか。

    曾小川久英教授

    曾小川 久英    学校法人産業能率大学総合研究所 客員研究員


    現状を維持せよ、変革は不要だというのではない。頑迷な頑固一徹を推奨しているのでもない。ただ、変わろうとする前に変わらぬものが要ると思うのだ。秩序があるから自由を実感できるように、変わらない不動点があるから、変化が活きてくる。変えることにより、変わらない部分が照射され、その照り返しが、何をどこまで変えるかをあぶりだす。

    過去から培われた伝統や慣習があるから、新しさが鮮明になる。むやみやたらと変えればいいのではなく、ただ新しければいいのでもなく、変わらないもの、維持されてきたものとの調和が図られてこそ、変化や新しさに価値が生まれる。


    個人にとっては、組織以上に、変わらぬ自分は必要だろう。自分自身の心棒も築かずに変わろうとするから、焦燥感に苛まれ、焦れば焦るほど悪循環に嵌まりこむ。変わらない自分自身を冷静に見つめ、変わらない自分自身をもっと大切にすべきではないだろうか。

    『去来抄』(俳人去来が師の松尾芭蕉の教えを伝えた書)に「不易を知らざれば基立がたく、流行を弁えざれば風あらたならず」(永遠不変のものを知らなければ基礎がつくられないし、流行をわきまえないと新鮮さを持ちえない。中村雄二郎『正念場』より引用)という含蓄に富んだ言葉がある。

    そろそろ果てしない変化と新しさの呪縛からは決別する時期だろう。新しさに飛びつくより、変えるための方法論を探しまわるより、時間という試練をくぐり抜け、生きつづけてきたものの価値を見直そうではないか。変わることより継続することの大切さを再確認しようではないか。変化と新しさの呪縛から解き放たれたとき、焦燥感に苛まれない日々に巡り会えるのかもしれない。

    (3)求められることは教えられない

    功なり名を遂げた人物は、その過程での刻苦勉励をあまり語りたがらず、たやすく達成したかのごとく振る舞ったりするが、隠された地道な努力なしに称賛される成果を手にしたとはかぎらない。たとえ、意図せざる僥倖に恵まれたとしても、長い修業や下積みの時代があったのかもしれない。落ちこみ絶望的になったこともあったかもしれない。音楽に才能がある子供がいたとしても、その子供が才能を開花させるにはウンザリするほど単調で厳しい基礎教育が要るように。運動能力が人並み以上に優れていても、生活が成り立つプロのスポーツ選手になれるのはほんの僅かな上澄みにすぎないように。

    人間には個々に独自の才能や資質がある。知識や技能と違って、才能や資質はなかなか変わらないし、教えることもむずかしい。本質を見抜く眼、変革し挑戦する意欲、気概に満ちた主体的な意志、未来に向けた構想力など、経営リーダーやコア人材に求められる能力がよく語られる。こうした能力には才能や資質的な側面が色濃く滲み、必要なことは確かだが、すぐに身につくものではない。


    全15巻予定で『ローマ人の物語』の執筆に取り組んでいる塩野七生(1937年生まれ、ローマ在住)は、エッセイ集のなかで「ないものねだり、はやめましょう」といっている。

    「いでよ哲人政治家」「語るべきものなき政治家たち」「日本に欠けているパワー」の三論文を槍玉にあげ、「日本人が本質的にも歴史的にももっていないことを要求している。日本には哲人政治家などはいなかったし、今もいないし、将来もあらわれないだろう」

    「私は問いたい。あなた方は、あなた方の提言した方法を容れれば、われわれ日本人でも『哲人政治家』を生み、『言葉』をもて、『パワー』をもそなえられると、本心で思っているのですか、と。私ならばはっきりと、否と答える」(『ローマの街角から』)。


    できそうにもないことを追い求めてもむなしい。獲得がむずかしい能力を、習得せよと強要しても「ないものねだり」に堕しかねない。だれにでも秘めたる無限の可能性があることを全面的に否定はしないが、だれにでも限界があることもまた首肯できるはずだ。

    教育論や学校論を幅広く展開している批評家の小浜逸郎(1947年生まれ)が「頭がよくなるのには、人それぞれにどうしても限界がある。そして、その限界がないかのような考え方は欺瞞であり、そういう考え方を基礎にして社会のあり方や教育のあり方を議論しても、その場しのぎの空想的な教育論や、自己慰安的な放談が生ずるだけである」

    「性能の悪いカメラをいくらその性能の限界まで駆使したとしても、カメラのキャパシティそのものがよくなることがないのと同じです」(『頭はよくならない』)と端的に述べている通りだろう。


    教えられることや与えられることにも限界がある。
    <前編>でも引用した宮崎哲弥は、「そもそも教育とは、どこかいかがわしく胡散臭いものである。他者に何かを教えるという営為の裏には、本質的な危うさ、訝しさの影が寄り添っている。だから教育は不遜な行為であるという認識から出発しない教育論を私はあまり信用しない」(『身捨つるほどの祖国はありや』)と教えることの危うさを指摘している。


    「プロ教師の会」の理論的支柱として活動している諏訪哲二(1941年生まれ、埼玉県の元高校教諭)は、「教師がその『仕事』においてしていることは、『私』の育成であり、将来、近代的市民という一般性において自己表示するはずの『個体』の教育なのである。・・・・・ そこでは当然個々の生徒たちがその場で『主体』として屹立してくることは想定されていない」

    「世の中では往々にして教育は『私』一般ではなく、『この私』の育成であると考えられている。・・・・・ だが、『この私』という『主体』は、自分で立ち上がってくるものなのである」と「個体」としての「私一般の教育」と「主体」としての「この私の育成」を峻別している。


    「主体」としての「この私」は自分で立ちあがらねばならないのだ。だれかが何かを教えてくれたり、与えてくれたりするのではない。
    だれかが「この私」を育ててくれるのでもない。自分で自分を育てるのだ。経営リーダーやコア人材は自分で立ちあがってくるのだ。

    自らの〈観・想・志〉は、自らで長時間をかけて熟成し醸成するものなのだ。

    【お断り】文中でのトピックスについては、読者の皆様方に「こうあるべき」「こう考えて欲しい」と主張するものではありません。本コラムの主旨はあくまでも、ご自身が深く考えていただくためのきっかけをご提供するものです。そのために本連載の内容に触れて、ご自身の意見(異論含む)を振り返ったり、確立いただく中で、ご自身の思考の座標軸をつくるヒントとしていただければ幸いです。

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    ※著者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

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