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~part1その3:組織と個人への眼差し<後編>【ビジネス思索塾】

組織は不可解な人間の集まりだから、わかりやすい一面的な説明で理解できるものではないだろう。当てはずれ、思惑ちがいなど、予測していなかった意図せざる結果も往々にして生じる。どうせこんなものだと決めつけて思考を中断すれば、現実が織りなす微妙な綾を見落とすことにもなりかねない。

たとえば、次のような主張は妥当な見方だろうか。いろいろな側面が気にかかるはずだ。

「組織は気心が知れた者ばかりの集まりではない。さまざまな個性のメンバーがいる。しかし組織をマネジメントするには、一人ひとりの個性を尊重し、それぞ れが自分の個性を発揮するように促さねばならない。どんなに個性が多様でも、同じ組織のメンバーなんだから、できるだけコミュニケーションを密にし、本音 で話せば協調できるはずだ」

    曾小川久英教授

    曾小川 久英 学校法人産業能率大学 総合研究所 経営管理研究所 主幹研究員 総合研究所教授


    • すぐにケース・バイ・ケースという声が聞こえてくる(確かにそうだが、それはちょっと横においといて)。この主張に諸手をあげて「その通り」と言える人は、かなり居心地のいい組織にいるのだろう。周囲の人たちを思い浮かべ、あの人とはどうやっても協調できないと感じれば、簡単に「その通り」とは言えそうにない。
    • だれにでも個性はあるが、組織では個性の発揮を促さねばならないのか。創造性が求められる研究開発的な仕事なら「その通り」だろうが、規律や統制が重視される仕事なら、あえて個性を抑制しなければならないこともあるはずだ。
    • コミュニケーションを密にすれば、相互の協調は促進されるのか。人間関係はある程度まで親密になるとお互いの地がでてくる。その結果、もっと親密になることもあるが、急速に離反し憎悪にいたることもあるだろう(「ヤマアラシのジレンマ」という寓話を聞いたことがあるかもしれない)。
    • 本音で話したほうがいいのか。みんなが本音を言いだしたら、たぶん収拾がつかなくなる。組織には原則的な建前が厳然としてあるはずだ。

    ちなみに、以下の主張についても考えてみてほしい。組織の悩ましさが窺えるだろう。

    「組織マネジメントの過程では、組織の目的と目標の達成を最優先すべきである。時には対人関係面での摩擦や葛藤が生じるのもやむをえない。個人的な感情や人間関係ばかりに配慮していれば、かえって効果的な組織運営がむずかしくなる」

    「人間には仕事を通して自分の能力を発揮したいという欲求がある。だれでも任されれば、自発的に行動し自らの意志で新たなことに挑戦するものだ。個人目標を設定する場合でも、上司などが干渉しすぎず、自主的に設定できる環境が築かれていなければならない」


    組織は一筋縄では捉えられない。でも組織活動の成果が社会を支えている。私たちは組織のなかで仕事をし、組織をマネジメントして目標を達成する。どんなにすばらしい戦略が立案されても、それを実行する組織が機能しなければ、画餅に帰すことは確かだ。組織の特性をすべて網羅することは不可能だが、組織が抱える特性をいくつか探ってみたい。

    組織思考

    組織では、メンバーと一緒に考えることにより、ひとりでは思いつかないアイデアを引き出せる。だれかの意見に誘発され、ひとりで考えるときより新たな視点を獲得できる。

    しかし逆に、自分だけなら必ず疑問を挟み、決して賛同しないことでも、組織だと決定してしまう場合がある。多くが一致して主張することに、あえて反対するのはむずかしい。何人かで考えるがゆえに、ほかのメンバーによって葬られる意見もある。

    組織思考には、プラス面だけでなく、多数意見の圧力、リスクへの鈍感さ、判断への過信など、集団浅慮というマイナス面もつきまとう。(集団浅慮については、金井壽宏『ニューウェーブマネジメント』に詳細あり。バブル期の日本は、社会全体が集団浅慮に陥っていたのかもしれない。集団浅慮を避けるために、意思決定にあたっては「周知を集めてひとりで決めよ」といわれる)

    組織の慣性

    組織は目的達成のために役割を分担し、内部的な手続きを設定する。組織のメンバーは決められた手続きに従って自分の役割を遂行する。いったん役割や手続きが決まると、メンバー個々はそれを遵守し、その役割や手続きに慣れ、変更や再設定を厭うようになる。既得権益が脅かされる場合はなおさらである。その結果、組織には決められたことを決められたように進めようとする慣性がはたらく。変えることにともなう不安や混乱の予測がこの慣性に拍車をかける。

    ただ、ある時点で有効だった役割や手続きは、状況が変われば陳腐化する。固定化された役割や意図を離れて遵守だけが優先される手続きは、状況変化への速やかな対応をむずかしくする。組織は、内部論理を優先するセクショナリズム、平等主義、画一主義、前例主義などの安定志向に陥りやすい(「大企業病」という言葉を思いだしてほしい)。

    組織には「仕事のグレシャムの法則」と呼ばれる現象も見受けられる(「悪貨は良貨を駆逐する」という命題が「グレシャムの法則」)。プログラムに従った日常反復的な仕事と創造的・革新的な仕事を同時に担当しているとき、ともすれば前者が優先され、後者がないがしろになり、日常反復的な仕事が創造的・革新的な仕事を駆逐してしまう現象のことだ。日常反復的な仕事が一概に悪貨とはかぎらないが、「仕事のグレシャムの法則」に陥らないために、組織では日常反復的な仕事と創造的・革新的な仕事の担当者をわけたりもする(でもそうすると、日常反復的な仕事の担当者のモラルは下がりかねない。あぁ、悩ましい)。

    インフォーマルな関係

    組織には、公の役割や権限にもとづくつながりだけでなく、水面下での私的なつながりが存在する。生身の人間が集まれば、共通の話題で意気投合したり、互いに好きになったり嫌いになったりして、インフォーマルな関係を形成する。インフォーマルな関係は公の関係と重複するとはかぎらない。たとえ合理的で効率的な役割分担やルール設定でも、インフォーマルな関係を無視したものだと、円滑な組織運営を阻害することもある。

    目的と手段の転倒

    組織は目的と手段の連鎖でつながっている。ある組織の目的は、より大きな組織から見れば手段になる。会社全体の目的から見れば事業部門の活動は手段であり、事業部門の目的から見れば各部署の活動は手段になる。

    しかし往々にして、組織は自組織の目的ばかりを追求し、より大きな組織の目的を見失う。事業部門は自部門の目的ばかりを追求し、会社全体の目的を見失う。各部署は自部署の目的ばかりを追求し、事業部門の目的を見失う。当初の目的を達成すると、自組織の存続のためだけに、新たな目的を四苦八苦して探したりもする。結束の固い組織ほど、この傾向は強いようだ(つまり、全体最適と部分最適の錯誤)。

    私的な意志と共同的な意志

    ひとりでは達成できないことでも、組織のメンバーが協働すれば達成できる。一人ひとりにとっては、自分の力が拡大したように感じられ、組織が大きくなるほど、その実感は膨らむ。ただ、そのためには個々の私的な意志が組織メンバーの一致した共同的な意志とならねばならない。

    しかし、役割分担、責任の所在、仕事の優先順位、報酬配分、上下の地位などを巡って内部に摩擦や葛藤や不満が生じ、メンバー間で対立するのが組織の日常である。メンバー個々の意志にはくい違いがあり、共同的な意志の実現はむずかしい。組織の内部対立が協働を阻害する現象は頻繁に散見される。強制的に特定の行動を強いねばならないこともある。

    組織が効果的に機能するには、協働と強制のバランスを保つことが必要だ。(赤字決算やマスコミからの集中砲火など、組織の存続を危うくしかねない大きな危機が外部にあるとき、組織は内部対立を棚上げし、一時的にせよ一致団結して対外危機に対処する。共同的な意志は、危機感ではむずかしいが、危機になると実現したりする。でも、危機になってからでは手遅れだ)


    たぶん理想的な組織はありえないのだろう。組織をフラットにすれば、意思決定のスピードはあがるが、メンバー間での横の連携は取りにくく、人材育成もむずかしくなる。統合的な組織にしても、分権的な組織にしても、それぞれに一長一短があるだろう。

    組織の制度も同様だ。ISOを取得しても、品質が向上したり環境対応が図れたりするとはかぎらない。目標管理や方針管理などのしくみを徹底しても、さまざまな問題解決手法を浸透させても、成果につながる保証はどこにもない。組織の効果性は、事業や業務の特性、マネジメントのあり方、メンバーの資質などの組織実体に依存せざるをえないはずだ。

    (3)組織のゲームと個人のゲーム

    組織は個人に役割遂行を通した組織活動への貢献を求め、個人は組織での仕事を通して自分の願望(関心や報酬)充足を求める。組織の貢献期待と個人の願望充足がバランスされれば、組織と個人の関係は安定する。

    しかし、組織の期待と個人の期待がうまくバランスされるとはかぎらない。効率的な目的達成という組織の論理と最大限の願望充足という個人の論理は往々にして衝突しがちだ。納得できない組織的な決定に対して、価値観や倫理観に合わない仕事に対して、貢献に見合わない報酬に対して、個人はどうするのか。再考を求めて組織に働きかける、甘んじて受け我慢する、新たな組織を希望するなど、個人は失うものにともなう苦難の大きさと得られるものにともなう快楽の大きさを秤にかけ、自分で判断し自分で選択するしかない。
     組織(ここでは企業で考える)のゲームと個人のゲームでは、ゲームの内容が違い、勝ち負けの基準が異なる。それぞれは峻別をしておく必要があるだろう。

    企業は市場顧客の獲得ゲームに集団で取り組む。公正を原則とするルールのもとで競争し、勝つ企業もあれば負ける企業もあり、参加したすべての企業が勝ち残れるわけではない。企業にとっての主たる関心は企業のゲームの勝ち負けであり、勝利を目指し、組織の論理を優先して組織の掟で個人を拘束する。

    個人は仕事を通して企業のゲームに参加すると同時に、企業が獲得した成果の配分ゲーム(願望充足ゲーム)をする。できるだけ多くの分け前に預かろうと、企業のゲームに参加した個人同士で競争する。企業がゲームに勝てば、配分される分け前は増加し、個人のゲームの敗北者は相対的に減少する。企業がゲームに負ければ分け前は減少し、個人のゲームの敗北者は相対的に増加する。

    企業がゲームに勝ち、個人もゲームに勝てればめでたいが、企業がゲームに勝っても、個人のゲームの敗北者はつねにいる。たとえ企業がゲームに負けても、個人のゲームの勝利者もまたつねにいる。個人にとっての関心は自分のゲームの勝ち負けであり、企業の勝利を目指すのは、自分がゲームに勝てる可能性が高まるからである。企業のゲームがどうなろうと、自分が個人のゲームに負ければ、挫折感や絶望感に苛まれざるをえない。

    個人のゲームは企業のゲームより評価基準(評価のルール)が曖昧で不透明感が漂う。貢献した仕事の成果でゲームの勝ち負けを決めるという建前はあるものの、何で仕事の成果をはかるのか、仕事の成果をどのように個人に還元するかは評価者(ゲームの審判)の判断に任され、そこには個人的な主観の入る可能性は残る。ゲームである以上、勝ち負け(優劣)は決めねばならないが、自己評価と他者評価のずれは避けがたい。ただ、どんなに精緻に評価基準を決めてみても、人間が人間を評価することには変わりなく、個人のゲームに絡む不満は、企業に属するかぎり、なくなることはありえまい。

    ただ厄介なことに、企業が継続的かつ安定的に営利を確保するには、個人が期待される行動を取り、相互に連携の図れた活動を展開しなければならない。評価基準を明確にしてできるかぎり公正な評価を実施しても、多くの個人が期待する貢献を果たさなければ、個々の評価が一様に悪くなるだけでなく、成果が生み出されず、企業がゲームに勝てなくなる。

    また、企業がゲームに敗れ、拡大と成長を果たせなければ、個人は自分の願望充足の機会と舞台を失い、自分のゲームの勝利が危うくなる。企業のゲームの勝ち負けは、個人の出来不出来に依存し、個人のゲームの勝ち負けは、企業のゲームの成否に左右される。企業のゲームと個人のゲームとは、異なる次元にも関わらず、相互に不即不離の関係とならざるをえない。

    【お断り】文中でのトピックスについては、読者の皆様方に「こうあるべき」「こう考えて欲しい」と主張するものではありません。本コラムの主旨はあくまでも、ご自身が深く考えていただくためのきっかけをご提供するものです。そのために本連載の内容に触れて、ご自身の意見(異論含む)を振り返ったり、確立いただく中で、ご自身の思考の座標軸をつくるヒントとしていただければ幸いです。

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