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~part1その2:辿りついた時代の風景<前編>【ビジネス思索塾】

こんなはずじゃなかった、と思うことはないだろうか。こんな世の中を目指してがんばってきたのではない、と感じることはないだろうか。現実の世界が平板な予想や推測を裏切って変転することはわかっていても、それでも、辿りついた時代の風景はかつての想像をはるかにこえた佇まいを呈している。

冷戦が終わってイデオロギーの対立が終焉したとき、たとえ一瞬でも、私たちは自由で平和な世界が訪れるのではないかと予測した。でも、その淡い期待はすぐに裏切られた。かつて多くの日本人はマンハッタンの摩天楼に憧れた。あんな近代的で瀟洒なビルが林立する都会を日本にもつくりたいと思った。

    曾小川久英教授

    曾小川 久英    学校法人産業能率大学総合研究所 客員研究員

    でも、実際にできてみれば、その憧れが砂上の楼閣だったことはすぐに判明した。利便性を追い求めた結果、街には24時間営業のコンビニが溢れ、その店頭で若者たちは深夜までたむろし、昔ながらの地元の商店街は閑散として寂れていく。

    便利な携帯をみんなが握りしめ、親指をせわしなく動かし、いつでもどこでもだれかと連絡を取りたがる。車内や機内や公共の場所で、「携帯電話のご使用はご遠慮ください」と儀礼的な呪文を繰り返されても、気にする素振りは一向に見せない。

    オフィスでは、迅速さと効率性を目指して導入されたはずのメールの処理に忙殺され、ウィルス対策に汲々としなる。
    テレビをつければ、チャンネルが増えた分だけ番組の充実度は薄まり、視聴率があがれば何でもありとばかりに、素人が大挙して登場するバラエティと楽屋裏を見せるNG特集ではしゃぎまわる。

    あげだせば切りがない。だれがこんな世の中にしたいと思ったのか。こうした奇妙な情景をどう理解すべきなのか。世界で繰り返される戦争への関与や隣国からのミサイル発射を防衛する術など、安穏とした平和な社会を脅かす大きな危機が目前に迫っているというのに、他人事のごとく傍観者を決めこみ、真剣に自分事として議論しない風潮をどのように解釈したらいいのだろうか。わかりやすい単純な説明で片づくものではないだろう。

    安直な理解はかえって事態を見誤る危険性も否めない。でも自分なりの〈観・想・志〉※を研ぎ澄ますには、手探りでもひも解いてみるしかない。いくつかの気にかかる兆候をとりあげて辿りついた時代の風景を探ってみたい。

    (1)過剰さと飽和感

    私たちは過剰さという迷路に迷いこんでしまったのかもしれない。過剰なる自由、過剰なる平等、過剰なる豊かさ、過剰なる物財、過剰なる情報、過剰なる言説など、過剰さの嵐は止まるところをしらず、さながら過剰さという洪水に呑みこまれているようだ。

    ~私たちは過剰なる情報に対処できるのか~

    情報化の時代といわれて久しい。だれでも自分なりの情報をいつでも発信できる。出版物の量的な増加だけでなく、インターネットや携帯電話などの情報発信ツールが飛躍的に普及し、だれもがたやすく情報の発信源となり、世間には、企業からの、個人からの、マスコミからの情報が溢れかえっている。しかし、多様な情報の妥当性や有効性、その信憑性や根拠は、情報が溢れれば溢れるほど見分けにくくなる。真偽が定かでない情報が急増し、ガセネタは枚挙に暇がない。

    そもそも私たちはどのくらいの情報を必要としているのだろうか。受信者が必要とする以上に発信され、受信者が処理できる能力を超えて氾濫する情報に、私たちはどのように対処すべきなのか。生活をするのに、仕事をするのに、時間を潰すのに必要な情報など、かなりかぎられている。新聞を読まなくても、テレビを見なくても、インターネットにアクセスしなくても、さしたる支障はないはずだ(必要ないと強弁するつもりはないが)。知らないことに不安をおぼえ、あくせくと新たな情報を追い求めるから、不確かで信憑性に乏しい情報に振りまわされ、発信者の意図に嵌まり、結果的に情報操作されるという愚に陥るのではないのだろうか。

    ~需要なきところに需要を創出する企業活動~

    市場には過剰さと飽和感が満ち溢れ、生活者(消費者)は新たなニーズをあまり自覚できない。生活者が起点となり生活者自らが希求するニーズに応えた新たな製品やサービスが供給されることよりも、情報技術や生命科学などを駆使して開発された新たなシーズが生活者の欲望を刺激するのが常態だ。でも画期的な新技術や新製品など、めったに掘りあてられない。需要なきところに需要を創出する企業活動は、価格や機能の微差に拘る袋小路に迷いこんではいないのか。

    より根源的に考えれば、企業活動の正当性や妥当性は何にもとづいているのだろう。公共性が自明ではない多くの企業にとって、市場的な価値と社会的な価値の両立は可能なのだろうか。できるだけ売上げを伸ばして儲けることにどのような社会的な価値があるのだろうか(すぐに、雇用の創出、納税、消費刺激、経済発展などの社会的価値があるとの声は聞こえてくるが・・・)。しかし、宣伝し販促して無理に売ることはどのような根拠にもとづいて許容されているのだろう。どの会社も経営理念に社会への貢献を掲げているが、企業活動にその理念は本当に反映されているのだろうか。

    際限のない欲望が過剰さを引き起こす元凶であることは確かだろう。ある欲望が充足されても、私たちはすぐに、もっと豊かに、もっと速く、もっと便利に、もっと安くとさらに欲望を膨らませる。膨らんだ欲望を満たすために、企業はさらなる努力を積み重ねる。「顧客満足」というスローガンがその懸命な努力を叱咤する。こうした循環が資本主義の原動力なのは間違いないが、いつまでつづければいいのだろう。

    儲け話をビジネスチャンスと言い換え、さもビジネスチャンスがすばらしいように語られるが、社会的な価値に乏しい儲け話にどのような意味があるのか。少なくとも業界のリーディングカンパニーは、顧客の満足ばかりを追い求めず、あるべき賢明な消費者像の提示と啓蒙にもっと注力すべきではないだろうか。生活者としての私たちは、果てしない欲望充足ゲームに踊らされず、足るを知り、成熟した大人としての消費に心がけるべきではないだろうか。

    <観・想・志>とは
    「自分と社会やビジネスとの関わりを根底で支える自分なりのものの見方と考え方」「意思決定や判断選択にあたっての基準や前提や指針となる自らの価値規範」を総称的に表現した言葉である。
    <観>:世界観、歴史観、人間観、組織観、事業観、仕事観 ・・・・・
    <想>:社会への想い、ビジネスへの想い、組織への想い、仕事への想い ・・・・・
    <志>:自分が成し遂げたいこと、自分の存在価値、自分の使命 ・・・・・
    「大局的な視点」「本質洞察」「見識」「教養」「インテリジェンス」などとも言い換えられる。
    【お断り】文中でのトピックスについては、読者の皆様方に「こうあるべき」「こう考えて欲しい」と主張するものではありません。本コラムの主旨はあくまでも、ご自身が深く考えていただくためのきっかけをご提供するものです。そのために本連載の内容に触れて、ご自身の意見(異論含む)を振り返ったり、確立いただく中で、ご自身の思考の座標軸をつくるヒントとしていただければ幸いです。

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    著者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

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