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~part2その1:曖昧さへの挑戦【ビジネス思索塾】

〈曖昧さ〉、唐突でわかりにくい言葉だと思う。〈曖昧さ〉を代表用語にしているが、不確実性、不透明さ、複雑さ、多様性、輻輳した状況、カオスなどとほぼ同義である。

私たちは曖昧な世界に生きている。曖昧な世界を相手にビジネスを展開している。曖昧さを見つめ、曖昧さを解釈し、曖昧さに道筋をつけて、曖昧さを切り拓かねばならない。

part2では、大人として、社会人として、リーダーとして、曖昧さを自らで切り拓くための姿勢や観点を検討したい。

    曾小川 久英    学校法人産業能率大学総合研究所 客員研究員

    1.曖昧さへの挑戦

    私たちには安易な固定観念を抱いて安心する癖があるらしい。さまざまな事柄にレッテルを貼って決めつけると頭のなかはすっきりする。世の中の動きや社会の出来事を決まり文句で割り切ると気分的には楽になる。

    わかりにくい曖昧模糊とした事態は単純化され、一面的な意見が世論としてまかり通り、特定の主張が国民の意思として偽装される。わかりやすい単純な言説が歓迎され、わかりにくさを忌避する傾向が蔓延しているようだ。

    ノンフィクション作家の高橋秀実(1961年生まれ)は、沖縄米軍基地、若狭湾原発銀座、諫早湾干拓などを取材し、現地の生の声を伝えた『からくり民主主義』(「国民の声」ってのは、いったい誰の声だ?と本の帯にあり。マスコミ報道を検証している。村上春樹の解説付き)の終章で、世の中のわかりにくさについてこう述べている。

    「ところが現地に出向くと即座に、私はわからなくなります。テーマは『わかる』のに、そこにはテーマがないかのようです」「話をわかりやすくするために、人々の立場をはっきりさせるという方法があります。賛成派、反対派などと線引きするのです。
    しかしこれも『実は・・・・・』の世界に入ると、境界がはっきりしなくなる。例えば、沖縄では『基地反対』という立場があり、一方に『基地に依存』する立場がある。両者のせめぎ合いという単純な構図が考えられますが、『反対』で生計を立てている人がいたり、反戦地主の市長が基地を受け入れたり、実際に線引きを始めると人数分の線が必要になってくるのです」

    私たちはわかりにくさに、なぜ耐えられなくなってしまったのだろう。
    わかりにくいことをわかりにくいままで受け止められず、なぜわかりやすさに短絡的に崩れてしまうのだろう。世の中はそんなに整然としたものだろうか。わかりやすい一面的な見方で捉えられるのだろうか。世間に流布する単純な言説への迎合で片づけられるのだろうか。

    (1)曖昧さの根源

    決定論的・機械論的・自然科学的な世界観 ――「世の中にはそれ自体に客観的な秩序が備わっており、人間はそのなかで生きている。世界の出来事や人間の行動には、いつでもどんな場面でも通用する客観的なパターンがある」を信奉していれば、どこまでもその秩序の在りようを追い求め、すべては科学的に解明され、何らかの因果関係で説明できるはずだと思いこむ。しかし、実感に照らしてふり返ってみれば、さまざまな出来事に客観的な秩序や明白なパターンなど、はじめから備わっているようには思えない。世界は多様な現実と異なる見解のゆるやかなまとまりなのだ。
    私たちは世の中の曖昧さから逃れられそうにない。これまでにも触れてきたことだが、曖昧さの根源を再確認してみたい。

    突然の明日:将来の曖昧さ

    ある日突然、事故に巻き込まれる。ある日突然、災害に見舞われる。ある日突然、病気を宣告される。これまで順調だったとしても、これから先も順調だといえる根拠はどこにもない。世の中はいつも偶発的で脈絡がない。これまでの経験から、ものごとはいままで通りに進むはずと思うのは軽率だ。経験の蓄積は、思考の習慣や行動の傾向は形成するが、普遍的な原理は導かない。未来はいつも不確実である。
    (あたり前ですね。「過去」とか「未来」はどこにもない、あるのは「いま」だけだ、という哲学での時間論に踏みこむと頭が混乱します)

    状況への依存:関係の曖昧さ

    ある場面で成功したことが、ほかの場面でもうまくいくとはかぎらない。ある集団で能力を発揮した人が、ほかの集団でも有能だとはいい切れない。理路整然と精緻化された理屈でも、いつでも通るとはかぎらない。うまくいくかどうかは、ひとえにそのときの状況に依存する。自分と他者、個人と集団、集団と社会など、それぞれがそれぞれの関係をどのように認知し、どのように理解するかによって、ことの成否は左右される。
    (結局のところ、相性とか、馬が合うとか、人間関係がうまくいくかどうかは状況次第。がんばれるかどうかは気分次第? 血液型や星座での占いが廃れないのは、何か納得できる理屈がほしいから?)

    相対化の呪縛:価値の曖昧さ

    ある人にとって価値あるものが、ほかの人にとっても価値あるものだとはかぎらない。ある企業にとって大切なことが、ほかの企業にとっても大切であるとはかぎらない。ある時代のある文化にとっての価値が、違う時代の違う文化にとっての価値になるともかぎらない。いま価値あることが、将来も価値ある保証はどこにもない。普遍的な価値や絶対的な価値への共通した了解はなかなか築けない。伝統や慣習が揺らぎ、倫理道徳的な締めつけが緩み、価値観の多様化という流行り文句に踊らされ、価値はますます相対化して曖昧になる。
    (だから、自分の見解や大切にしている価値を自分の言葉で表明しなければ、ほかの人には伝わらない。)

    歪みと操作:情報の曖昧さ

    情報はつねに細分化され断片化し、総合的かつ全体的な情報は抽象化する。媒体を通して伝えられる情報は、事実や出来事そのものとは異なる姿になることも否めない。私たちが受け取る情報は、主にだれかによって予め選択された間接的な情報で、切り捨てられた情報は当初から隠蔽されている。情報量の増大は、判断材料を豊富にする反面、私たちの事実認識を曖昧にし、相対的な問題解決能力を減殺させたりもする。

    語りえぬもの:言葉の曖昧さ

    言葉には、その言葉が指し示す意味を伝達する機能的な側面と、その言葉を発した人の自己表出的な側面がある。同じ言葉であっても、発した人の声の質や抑揚、そのときの状況やその人との関係などにより、理解される内容はさまざまになる。どんな言語表現が適切なのかは画一的には決められない。
    さらに言葉にできないもの、語りえぬものが人間にはある。表現力の優劣によるだけでなく、感覚、直感、気分などはもともと言葉には馴染まない。相互に人が交流するには言葉は欠かせない。言葉によってわかり合い、言葉によって通じ合う。しかし、言葉には言葉ゆえの曖昧さが付きまとう。
    (曖昧さを切り拓く武器は言葉だ。言葉の力は欠かせない。でもどんな言葉をつかえばいいのかはわからない。同じような場面で、同じような立場の人が、同じようなことを言っても、理解される内容は同じにはならない。聞いている人が違うから、まぁあたり前か。ボソッと言ったひと言がインパクトを与えたり、何を考えているのやらと無視されたり。饒舌に語ってみても、かえって要点がぼやけて伝わらなかったり。ただ、自分の言語表現力がどの程度なのかは、これまでの体験からおおよそはつかめているはずだが)

    意図せざる結果:認識の曖昧さ

    人間の認識は完璧ではない。ひとりの認識力など、たかが知れている。だれでも自分に関わるごく僅かなファクターだけをつかまえて、そのファクターにもとづいて行動する。大半のファクターは読み落とされ、読み落とされたファクターが、読み落とされた因果連鎖をたどって、意図せざる結果を引き起こす。良かれと思ってしたことがかえって傷口を深めたり、ある言動が予期せぬ波紋を拡げたり、信頼していた人に裏切られたり、世の中は意図せざる結果に満ち溢れている。
    (このあたりのことは、森下伸也・君塚大学・宮本孝二『パラドックスの社会学』に詳細あり。人びとがある状況を予想し、その予想にもとづいて行動した結果、もし予想しなければ起こらなかったような状況が本当に生じてしまう「予言の自己成就」とか、私悪が公益になったりする「合成の誤謬」とか、興味をそそる話が満載)

    (2)わかりにくさに耐える

    根源的な曖昧さが横たわっている世界に、正しさとか真理とか因果関係とかが予めあるのではない(たぶん)。人間が混沌とした状態に区切り目を入れ、自分たちで曖昧な事柄を何らかの秩序へとつくり成したのである。自分たちが正しいと解釈し、自分たちが合理的だと感じるように捉えただけなのだ。決してそれが真理とはかぎらない。すべてを明瞭になど、できるはずがない。

    ただ、曖昧だから仕方がないといいたいのではない。曖昧さの前に立ちつくすのではなく、曖昧さを自らで解釈し、自らで道筋をつけて、曖昧さを切り拓くことが肝心なのだ。世の中や人間が本来的に抱える曖昧さに、自分なりの視野で、自分なりの時間軸で、自分なりの観点から対処する。答えの不在に早計な絶望をすることなく、偽りの答えに安住することもなく、問いつづけ、考えつづける。

    事業展開や組織運営や業務推進でも、自分のキャリア構築でも、めざすべき方向性が与えられるのを待つのではなく、方向性を自力で描きだすのだ。いつでもどこでも通用する有効な方法論はないだろう。だからこそ、どこかにあるかもしれない方法論を探すのではなく、方法論を自力で編みだすのだ。いつでもどこでも適用できる適切な観点もないだろう。だからこそ、どこかで有効だった観点で整理するのではなく、自力で状況を捉える観点を築くのだ。わかりやすさに堕すのではなく、わかりにくさに耐えながら、実感に照らして自分の頭で深く考え、曖昧さを自らで切り拓くのだ。

    そもそも、予期せぬことが起きるから、思わぬ事態に遭遇するから、先行きがわからないからこそ、生きる楽しみがあり、将来への夢を語れるのだろう。すべてが明白になってしまったら、人間は明日への活力を何によってかきたてればいいのだろうか。

    【お断り】
    文中でのトピックスについては、読者の皆様方に「こうあるべき」「こう考えて欲しい」と主張するものではありません。本コラムの主旨はあくまでも、ご自身が深く考えていただくためのきっかけをご提供するものです。そのために本連載の内容に触れて、ご自身の意見(異論含む)を振り返ったり、確立いただく中で、ご自身の思考の座標軸をつくるヒントとしていただければ幸いです。

    本コラムの執筆者(曾小川久英)が担当するセミナーのご案内



    ※著者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

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