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~part2その2:実感に照らして深く考える<後編>【ビジネス思索塾】

組織の論理がいつのまにか私たちの思考のなかに浸潤し、大手を振って跋扈している。効率的な目的達成を目指す組織において有効な考え方が、まるで世の中における普遍的な考え方であるかのように信奉されたりする。自由競争を至上命題とする市場原理が、医療や教育などの非市場的な領域では必ずしも有益ではないように、組織であたり前のように実践されている思考方法も決して万能ではないはずだ。

たとえば、効率という概念。組織では効率的な業務展開が原則だ。ムリ・ムラ・ムダをできるかぎり排除せよと徹底的にたたきこまれる。組織での仕事の進め方に染まってくると、知らず知らずのうちに効率的なことがいいことのように思いこんだりする。でも組織を離れてみれば、効率の忌まわしさにすぐ気づくだろう。効率的な人生に何ほどの価値があるのか。効率的な食事がどれほど楽しいのか。効率的な旅はおもしろいのか。たとえ非効率でも、充実した時間をできるかぎり長く満喫しようとするのが人間ではないか。道草をくいながらも、試行錯誤をしながらも、最大の努力で最小の成果しかあげられなくても、それもまた人の生きざまではないか。最小の努力で最大の効果をあげようとする効率的な試みが、かえって味わい深い人生を妨げたりする可能性もあるはずだ。

    曾小川 久英    学校法人産業能率大学総合研究所 客員研究員

    目的と手段で考える、因果的に考える、組織でなら欠かせない思考方法だろう。でも、生きることの目的は何か。家族に目的はあるか。何のために働くのか、働くことは目的なのか手段なのか。簡単には答えられそうにない。人生の障害や制約を原因追求しても、機械の故障や制度の不備のような修復は困難だ。過去は消せないし、才能や資質もなかなか変わらない。現在の自分は短絡的な因果関係では捉えられそうにない。すぐに評価的な判断をくだすのも組織特有の思考だ。企業なら成果への貢献度合を尺度に評価できる。学校なら学力試験の結果を基準に評価できる。しかし、人格や価値観を評価する妥当な尺度や基準は見当たらない。優劣や良否はそれほど明瞭には決められない。

    組織における考え方を、普遍的に有効な思考方法と錯覚するだけでなく、多くの場面で私たちは習慣的な思考の陥穽に嵌まりがちだ。世間に流布する言説をみんながそう言っているからと鵜呑みにしたり、策定された計画や方針に何の疑いも抱かずに従ったりする。自分の頭で深く考えるのは面倒くさいのだ。精力的な執筆活動を展開している橋本治(1948年生まれ。小説・評論・古典の現代語訳・エッセイなど多数)はこんなふうに語っている。
    「われわれは、『自分はこのままでいいかな?』とか、『この自分は、もう少しなんとかならないかな?』という疑問をもってしまう。でも、そういう疑問に対する答えはなかなか出ない。いくら考えても出ないから、『どっかにその答えを簡単に出してくれる人がいるんじゃないか? その簡単な答えがあるんじゃないか?』と思いはじめたりする。・・・・・ がしかし、(そんなふうに思ったりする)あなたに欠けているものは、『自分の頭でものを考える』ということで、『自分の頭でものを考えるということは、とんでもなく大変で、悠長で、効率の悪いことである』ということだ」(『宗教なんかこわくない!』)。

    効率的に考えようとするから、すぐにわかろうとするから、自分事として受けとめようとしないから、思考に深みや拡がりがでてこないのだ。運が悪かったり油断したりすると、だれかに洗脳されてしまうのだ。世の中の複雑な事柄について、あんな面もある、こんな面もあると考える思考の忍耐を私たちは失ってきているのかもしれない。

    (3)客観性に惑わされるな

    科学技術の世界ならともかく、日常生活やビジネスの現場でも、主観的なことより客観的な方が望ましいという風潮がある。「評価や判断は公正でなければならない。主観を極力排除し、事実やデータにもとづいて客観的になされるべきだ」「目標は定量的な数値で示さねばならない(数値なら客観的だから)」などと主張されたりする。ただ、客観的とはそもそもどのようなことだろう。客観的な評価や判断などはあり得るのだろうか。定量的なことは定性的なことよりも望ましいのだろうか。客観性といわれることの内実を探ってみたい。

    客観的とは、事実にもとづくことだといわれる。業績が落ちた、機械が壊れた、これらは確かに現実に起こった事実である。しかし、事実そのものには何の価値判断も含まれてはいない。単なる事実の羅列にあまり意味はない。ある事実を(良い悪いとか、正しい間違いとか)判断するには、事実にまつわる経緯や背景を知り、ほかの事実とのつながりを理解し、事実を解釈しなければならない。事実の理解や解釈ができてはじめて、事実にもとづく主張が可能になる。ただ、事実の理解や解釈には主観的な判断や価値評価が入らざるをえない。事実そのものに意味があるのではなく、事実が主観的に理解され解釈されるからこそ、事実に意味が生まれるのだ。

    調査データも客観性を装っている。でも、調査結果は、調査内容や調査方法、対象の絞りかた、処理の仕方などに影響される。データの調査項目はだれかが作成し、対象はだれかが選定し、処理方法はだれかが決めている。調査を組み立てる段階で、だれかの主観的な判断が入りこむ可能性は否めない。調査結果を客観的なデータと安易に鵜呑みにするのは危険だろう。データは事実と同様に解釈されてはじめて意味をもつ。ごく僅かな差を、有意味にするのも誤差ですませるのも、データの解釈しだいである。データの収集処理過程のすべてに立ち会える人はまずいない。意図的に操作し意図的に解釈すれば、データを駆使した情報操作も可能だろう。特定のデータにもとづいて、国民の意思が判明したなどという主張は胡散臭く、疑問を挟む余地はかなりある。

    新聞やテレビで伝えられる写真や映像は、確かに事実を映しているのだろう。ただそこにも、伝え手や映し手の主観的な判断が色濃く滲んでいる。付随する解説の微妙な言い回しや写真・映像のアングルなどにより、事実はいかようにも料理できるものだ。

    歴史には、その時代の出来事を記録し記述した人間の主観が混じりこむ。往時の支配的な権力者や有力な権威の介入もあっただろう。歴史的な事実の現場に立ち会った人が、後世への記録を残すとはかぎらない。多くは伝聞にもとづく記述であろう。とすれば、伝聞過程でも多くの主観的な判断が入りこんでいる。歴史は特定の物語にすぎず、まったく別の物語もありえたはずだ。

    客観とは、多くの人に共通する妥当性と共感性のある主観、だれにでも通じて納得させられる主観のことだろう(主観とは好き嫌いや感情的な気分ではなく、その人なりのものの見方と考え方)。客観性が予めあるのではなく、ある特定の主観を客観的と呼んでいるにすぎない。主観と客観の間に明確な一線を画すのはむずかしい。客観的と思われたことが、単なる主観にすぎなくなったり、主観的な判断が客観的になったりすることもあり得る。客観が望ましく、主観は避けねばならないと安直にはいえないはずだ。

    評価や判断の基準は、たとえ与えられた基準であっても、その基準が妥当であるという主観的な判断が入りこむ。たとえ主観的な基準であっても、関係者の納得感さえあれば、評価や判断は妥当なのだ。定量化された数値は、明確に確認できる指標ではあるが、その数値が主観的に意味づけされなければ、数値の必要性や切実感は浸透しない。主観は定量化できないが、定性的に状態や行動で表現すれば伝えられ共有できる。肝心なのは、自らの主観に妥当性と共感性を持たせることなのだ。

    【お断り】
    文中でのトピックスについては、読者の皆様方に「こうあるべき」「こう考えて欲しい」と主張するものではありません。本コラムの主旨はあくまでも、ご自身が深く考えていただくためのきっかけをご提供するものです。そのために本連載の内容に触れて、ご自身の意見(異論含む)を振り返ったり、確立いただく中で、ご自身の思考の座標軸をつくるヒントとしていただければ幸いです。

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    ※著者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

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