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~part2その3:自分の言葉で語る【ビジネス思索塾】

いまさら言葉の乱れをとやかくいっても屋上屋を架するだけだろう。日本語の崩壊現象については、さまざまな識者がさまざまに警告している。ここではひとつだけ紹介したい。

以前も取りあげた勢古浩爾は前掲書(『ぶざまな人生』)で、「過激化が言葉の世界では以前から進行している。『むかつく』。『キレる』。『殺す』。これが逆に『かっこいい』言葉だと思われている。『自分』を彩り、『自分』の生活を彩る、と思われている」と指摘したあと、最近の言葉の状況をこう活写している。
「『シカトする』も日常語化している。『オヤジ入ってる』という言い方。おまけに『系』である。これは漫才からだが、『ボケ』と『ツッコミ』はすでに市民権を得た。言葉を『かむ』。客が『ひく』。『うけ狙い』。ギャグが『すべる』。『カメラ目線』。キャラが『かぶる』。ギャグが『寒い』。関西弁で『サブー』。それに若者言葉が重なる。『ださい』。『まじ』。『うざい』。『きもい』。つい四、五十代の中年も使ったりするのである」。

    曾小川 久英    学校法人産業能率大学総合研究所 客員研究員

    若者が若者言葉をつかうのは、いつの時代でも同じだろう。でも、中年までが無自覚につかうのは気色が悪い。中年のオヤジが若者言葉をこれみよがしにつかっている光景ほど、珍妙なものはない。

    「過剰な言葉で、凡庸な自分を個性化し、平凡な生活を劇化させたいということか。仲間内だけの言葉で優越感をもちたいのか。世間慣れしているところを見せたいのか。ところがあえなく画一化に落ち込んでいるのである。世間で流行ると、自分でその是非・適否を考えることもなく、無批判に追随する」。

    中年ビジネスマンが、「いつか一緒に仕事をコラボりましょう」「チャリでの通勤は健康にいいんですよ」などと言うのを聞いたことがある(思わず、精神年齢を疑った)。大人ならば、もっと言葉に鋭敏になろうじゃないだろうか。言葉は精神の在り処を反映するのだ。言葉は思索の基盤なのだ。言葉は曖昧さを切り拓く武器なのだ。言葉は「とびっきり上等な道具」(橋爪大三郎『自分を癒す社会学入門』)なのだ。もっと自分の言葉を大切にするべきではないだろうか。

    (1)想いを言葉に

    子供のころには気づかなかったが、小学校や中学校での授業で、大人になってからの影響がもっとも大きな科目は何だろう ―― たぶん「国語」じゃないだろうか。

    文字を連ねただけの書籍から、私たちは描かれた情景をイメージできる。小説から人物像や場面状況を汲みとり、歴史書からその時代の雰囲気を感じとる。インクの染みにすぎない文字が、私たちの理性や感性に訴えかける。絵には描けないことでも、図表やチャートにはできないことでも、言葉でなら表現できる。いや、言葉でなければ表せないことがあるからこそ、どんな民族でも自分たちの言語を持っているのだ。

    日常生活やビジネスの展開過程では、国語力つまり言語能力は不可欠だ。説得や折衝場面だけでなく、新聞や雑誌の記事を理解するにも、企画書や計画書の作成にあたっても、ある事柄のプラス面とマイナス面を整理して判断するにも、言葉の力は欠かせない。言語能力は思考力や理解力の基盤である。言葉があるから考えられ、言葉をつかって理解する。言語能力が乏しければ、物事を明晰に把握したり、直面している事態を的確に捉えたりすることはむずかしい。

    頭のなかで考えたり感じたりしていることをうまく言葉で表現できないとき、人はたぶん苛立ちをおぼえる。言葉にすることで自分の思考や感情が鮮明になる。言葉にできれば、自分の見解や想いを他者に伝えられる。対面しないで何かを伝える書類やメールでのコミュニケーションでは、記述された言葉だけが(図表やチャートの場合もあるが)一人歩きせざるをえない。要領を得ない冗長な表現や意味のわかりにくい言葉の羅列では、効果的なコミュニケーションは期待しにくい。一般的なスローガンや手垢のついた常套句ばかりでは、共感は得られにくい。伝えたい内容をできるかぎり端的な言葉にする心がけが必要だろう。

    中間領域を言葉に

    自分の想いや考えを伝えるには、中間領域を言葉にすることが大切だ。仕事の推進過程では、期待をこめたスローガン的なテッペンの言葉(「変革挑戦」「顧客満足」「能力向上」「コミュニケーションの促進」など)と仕事の現実に密着したボトムの言葉(「・・・の変更」「・・・の作成」「・・・の明確化」「・・・の創出」など)はよく語られる。ただ語るべきは、テッペンとボトムの言葉だけでなく、その間にある中間的な領域ではないだろうか。

    中間領域とは、「どのようなことを(このようなことを)」「どの程度まで(この程度まで)」を自分の想いや考えとして盛りこんだ言葉である。「顧客満足」というスローガンにはだれも反対しない。あたり前すぎて、そこには自分の考えもほとんど見受けられない。ところが、「このような顧客に、この程度までの満足を提供すべきだ」と自分の見解を主張すれば、おそらく「もっとこんな顧客にも」「もっとこんな程度まで」などの反論や異論も噴出して議論になるはずだ。「どのような変革や挑戦を、どの程度まで達成するのか」「どのような能力を、どの程度まで伸ばすのか」「どのようなコミュニケーションを、どの程度まで促進するのか」「どのようなことを、どの程度まで明確にするのか」など、自分の想いや考えは中間領域に反映され、中間領域を語ることで鮮明になる。

    部門・部署レベルでのビジョンや方針にも、テッペンの言葉が時おり見受けられる。言葉は影響する範囲が広くなればなるほど抽象化し、範囲が狭くなれば具体的になる。企業のビジョンや経営方針は全社を網羅するために抽象的な表現にならざるをえないが、部門・部署レベルであれば、中間領域を盛りこんだ具体的なビジョンや方針が語れるはずだ。願望や建前を装った総論や詳細な個別事象の各論ばかりを語るのではなく、いかに中間領域を言葉にするかが直面する事態を明晰に分析する鍵ではないだろうか。


    多様で複雑な現実は「要するに・・・」と安直にまとめきれるものではない。「要するに・・・」とひと言でいえるのなら、言葉を紡ぐ努力は必要ない。できるだけ端的な表現に心がけることは大切だが、「要するに・・・」と無理にまとめようとすれば、かえって言葉を抽象化させ、伝えたい肝心な部分が丸めこまれて見えにくくなる。組織のなかで、「協力体制が組めない」「メンバーが育たない」などとよく言う。でも、その組めない事態や育たない現実は職場によってさまざまに違うだろう。とすれば、どこの職場にも当てはまる一般的な用語(「要するに・・・」的な)で説明するのではなく、どのような協力体制がどの程度までしか組めないのか、どのような能力がどの程度までしか育たないのかを、鮮明なイメージを彷彿させる言葉で表現しなければならない。そうすることではじめて具体的な対応策を検討できるのだ。

    ただ、置かれた立場や状況によって、発信された言葉の重みは違ってくる。新入社員と社長が同じような場面で同じようなことを発言しても、影響度合や波及効果は大きく異なるだろう。自分の立場や直面している事態を踏まえた適切な言語表現をしないと思わぬ墓穴を掘ることもあるはずだ。

    (2)言葉への感受性

    哲学者でも哲学研究者でもないので厳密な議論や詳細な検討はできないが、哲学とか思想といった世界では、言葉や言語にかかわる領域が大きなウェイトを占めているらしい。20世紀初頭に活躍したスイスの言語学者ソシュール(1857~1913)は「先にモノがあって言葉はそれを映すのではなく、逆にむしろ人間の認識というものは言葉を通じてしかありえないものじゃないか」という考えを提唱した(と、小阪修平『はじめて読む現代思想』に書いてあった)。哲学者ウィトゲンシュタイン(1889~1951、ウィーン生まれ)は「哲学上の諸問題は言語の働きを正しく理解することにより解決される」と主張したそうだ(解説書によれば)。

    こうした哲学的な言説は、言葉の深遠さと奥深さを語っているのだ(と思う)。自分の思索を深めるには、言葉に対してどのような感受性を持てばいいのだろうか。言葉を磨くにはどのようなことが鍵になるのだろうか。言葉にまつわるいくつかの側面を探ってみたい。

    言葉には色がついている

    言葉は、本来の意味に加えて、時代状況を反映したニュアンスをこめてつかわれる。「権力」「覇権」「帝国主義」「軍事」「戦争」などの言葉には否定的・批判的な色あいが滲み、「国民の声」「弱者」「民主主義」「平和」などの言葉には肯定的・同調的なニュアンスが漂う。

    ビジネス現場での言葉にも同様な傾向が窺える。「自主性」「挑戦」「変革」「飛躍」などには肯定的・同調的な色がつき、「妥協」「我慢」「主観」「慣習」などは否定的・批判的な色あいになる。個性はいいものだというニュアンスをこめて「個性の尊重」と標榜される。ただ、だれにでも個性はあるが、すべての個性がいつでもすばらしいとはかぎらない。企業にとって好ましい個性もあれば、忌み嫌われる個性もある。組織と衝突して協調性を乱す個性もある。言葉の色に惑わされると、思いこみ的な固定観念に嵌まりかねない。

    基本概念の定義はむずかしい

    ある領域の中心的な概念ほど、言葉で明確に定義することはむずかしい。「社会」という概念はどのように定義されるのだろう。「生命」とは何なのだろう。「国家」とは、「民族」とは、「政治」とは、「人間」とは、「文化」とは、「宗教」とは、「組織」とは・・・・・。何となくはわかっていても、鮮明な定義を求められると詰まってしまう。(金井壽宏『ニューウェーブマネジメント』に同様の指摘あり。小浜逸郎は前掲書『頭はよくならない』で、宗教の本質を「前提を欠いた偶発性を無害なものとして受けいれ可能にすること」と定義した社会学者の宮台真司を絶賛している。組織の定義なら、「何らかの目的・目標を達成するために意図的に結成された集団」「共通の目的・目標を持った人々の意識的な分業と調整の仕組み」あたりが無難なところか)

    見えない言葉の意味を鮮明に

    言葉は、確認できるモノを指し示すだけでなく、見えない対象や事柄を表現できる。だからこそ、抽象的な思考が可能になるのだ。それが言葉の力なのだろう。(見えない言葉 ――「問題意識」「責任」「連携」「体制」「共有化」「活性化」「柔軟な」「リーダーシップ」「コミュニケーション」「ベクトル」・・・。私たちは見えない言葉に取り囲まれている。流布する多くのカタカナ言葉は、日本語に置き換えにくいから、原語がそのままカタカナでつかわれているのだろう。ただ、カタカナ言葉は往々にして意味が不鮮明になりがちだ。煙に巻くためか、意図的なカタカナの濫用も目につくが・・・)
    ただ、受け取る人ごとに見えない言葉からはまちまちなイメージを想起する(「問題意識を持て」と言われても、思い浮かべる内容や事柄はさまざま)。見えない言葉はつかわざるをえないが、まちまちなイメージをまちまちなままで放置すれば、共通の了解にもとづく議論はむずかしくなる。見えない言葉への感受性を研ぎ澄まし、必要な折には、意味合いを明瞭にしたり具体的な行動に置き換えたりする心がけが要るはずだ。

    【お断り】文中でのトピックスについては、読者の皆様方に「こうあるべき」「こう考えて欲しい」と主張するものではありません。本コラムの主旨はあくまでも、ご自身が深く考えていただくためのきっかけをご提供するものです。そのために本連載の内容に触れて、ご自身の意見(異論含む)を振り返ったり、確立いただく中で、ご自身の思考の座標軸をつくるヒントとしていただければ幸いです

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    ※著者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

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