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~part1その1:精神の再構築【ビジネス思索塾】

連合軍最高司令官として占領統治にあたったダグラス・マッカーサー(1880~1964)は、「日本人の精神年齢は十二歳」と語った。解任されて帰国後、上院軍事外交委員会(1951年5月5日)でのことである。
発言の妥当性を判断する術はない。しかし、マッカーサー元帥の眼には、日本人の精神はおさなくて、ティーン・エージャーにもなっていないと映ったのだろう。

日本人は成長したのかをこの発言は問いかけているように思える。精神論を避けつづけ、精神を磨いてこなかったのなら、日本人の精神年齢は終戦初期の十二歳のままなのかもしれない。
精神という言葉には否定的なイメージがつきまとう。精神論や精神主義となればもっと旗色が悪い。精神主義で業績があがれば苦労はない、精神論じゃなくて現実的な行動レベルで語れなど、精神という言葉の評判はすぐれず、忌避しようとする傾向は強い。

言葉は本来の意味に時代的な気分や風潮が上乗せされたニュアンスで使われる。戦前・戦中時の精神論・精神主義に貼りついたイメージの名残なのか、精神と根性が同一視され、現実性や具体性を欠いた気合いばかりを強調する言葉のように思われている。

しかし、そもそも精神とは「知的な働きをする人間の心」である。精神が働かなければ、何ごともうまくいかない。夢を叶えるにも、プラス志向で考えるにも、諦めずに粘り強く取り組むにも、意欲とか意志にかかわることはみな精神の働きである。精神論とは切り離せない。

    曾小川久英教授

    曾小川 久英    学校法人産業能率大学総合研究所 客員研究員

    (1)精神の空洞化

    しばらく前に空洞化という言葉が流行ったとき、「産業の空洞化」「技術の空洞化」などと盛んに語られたが、「精神の空洞化」こそ、日本社会を覆う危惧すべき兆候なのではないだろうか。

    弛緩した自らの精神を棚にあげ、緊張感を欠いた安逸な日常に埋没しながら、批判や要求ばかりを声高に標榜する。「格差解消」「安全で安心できる社会」と叫んでいれば、誰かが何とかしてくれると思っているのか。なにかといえば、経済への影響と市場の反応を気にするが、世の中はそんなにわかりやすいのか。安直な因果論で片づくのか。大所高所の高みに立ち、瑕疵を見つけては行政や経営者を非難する。不祥事を起こした企業をここぞとばかりに糾弾する。でも、そうせざるを得なかった組織の宿痾に思いを馳せたのか(不祥事やむなし、などというつもりはまったくないが)。

    評論家的な論調に踊らされ、条件反射的にステレオタイプな反応を繰り返す。

    本当に自分の頭で考えているのか。自らを内省して、精神の在り処を確認しているのか。多様で複雑な側面に眼を配って判断しているのか。公共道徳の喪失、企業倫理の欠如などと人ごとのように批評するが、自らの精神にはそうした兆候はないのか。

    企業活動の前線でも、「環境変化への速やかな対応」「迅速な意思決定を可能にする組織体制の構築」「公平で透明感が高く、みんなが納得できる評価制度の導入」などが安直に要望される。
    あるべき論としてはその通りだが、誰がそれを担い、誰がそれを実現させるのか。万能な方法論はどこにもころがっていない。組織の現実を真摯に直視し、これまでの経緯を冷静に振り返れば、要望していることの厄介さや困難さに思いいたるはずだ。

    評論家的な言動でことが済むならいいが、企業の一員としてならそうもいくまい。誰かが何とかしてくれるのではなく、自分たちで何とかするしかない(三枝匡『V字回復の経営』には、改革への姿勢として、「覚悟を決める:あなたはもはや野党でいられない」と端的に示されている)。皆が評論家的になり、当事者としての心構えに乏しい要望を安易に投げつける風潮は、空洞化した精神の証のように思える。

    (2)精神の復権

    歴史の方向感覚として、明治以降、日本人はいつも欧米を目指して走りつづけてきた。はじめは「和魂洋才」を、戦後になると「洋魂洋才」を叫び、欧米的なライフスタイルに憧れ、欧米的な個の在りかたを持てはやし、欧米的な精神の獲得を追い求めてきた。
    しかし、科学技術はキャッチアップできても、精神の変容はむずかしい。慣習や文化が違い、依拠する宗教的な基盤の異なる日本には、欧米的な精神はなかなか根づかない。脈々と伝承されてきた日本的な精神(具体的には ・・・ う~ん。「歴史と伝統」とか「武士道」とか ・・・ )を放棄して過去との断絶を試みたものの、欧米的にもなりきれない精神は根なし草のように漂っている。

    宗教的な拠り所や伝統的な規範の乏しいなかで、精神を再構築するのは容易ではない。憂鬱な気分にもおそわれる。ビジネス現場では圧倒的な日常性に押し潰され、日々の仕事の忙しさに疲弊し、疲労感がそれなりの満足感や達成感に変わったりもする。精神論や精神主義を排除してきたからこそ、経済成長を達成できた面もあるのだろう。
    でも精神論を根性論に矮小化して排除し、精神論を忌避してきたことが、精神の空洞化を招いたのではないだろうか。それなりの豊かさを達成したのち、私たちが再構築しなければならないのは、どんなに厄介でも、やはり自らの精神である。

    慧眼な著作で知られる寺島実郎氏(1947年生まれ。日本総合研究所理事長)は、辛亥革命(1911~12)後の中国社会と闘った魯迅(1881~1936)の生涯と思索を紹介した論考で、「魯迅が闘い続けたものとは、中国社会に根強く存在し続けていた『馬々虎々(「マーマーフーフー」と読むらしい)』の土壌、すなわち何事も受身で情勢を受け入れるといったことにあった」(『歴史を深く吸い込み、未来を想う』)と述べている。直面している時代状況は違っても、いまの日本社会にも、「論法は鋭く、簡潔に主題に踏み込み、論争すべき相手の矛盾を切り裂き、重要な方向へと視界を導く」魯迅のような闘士が求められているのかもしれない(ないものねだりみたいだが ・・・ )。

    魯迅のごとき強靭な精神を築くことなど、あまりに畏れ多い。ただ少なくても、精神という言葉にまとわりついた呪縛を解き放ち、そろそろ精神論を復権させねばならない、とは思う。自らの精神を見つめ直し、自らの精神を省察し、精神を論じることが必要だ。

    たとえ砂漠に水を撒くような営みだとしても、日本社会に蔓延する経済論理至上主義的な風潮にささやかな反旗を翻すこと、世の中に溢れている評論家的な言説に追従する怠惰から抜けだすこと、空想的な夢物語を求めて走りまわる悪癖を断ち切ることが肝要だろう。

    ありったけの視点と振幅を保持して現実を見つめ、実感に照らして自分の頭で深く考え、流行に迎合したり呑み込まれたりしない自分固有の価値規範を研ぎ澄ますことがその手始めではないだろうか。

    多賀敏行『「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった』によれば、マッカーサー発言は「・・・ Measured by the standards of modern civilization, they would be like a boy of 12 as compared with our development of 45 years. ・・・」であり、真意は、「欧米社会の発展度合いでみると日本は子供のようなものである。子供であるからこそ教育は可能であり、日本をいわば慈父の立場から弁護することだった」と解説している。
    【お断り】文中でのトピックスについては、読者の皆様方に「こうあるべき」「こう考えて欲しい」と主張するものではありません。本コラムの主旨はあくまでも、ご自身が深く考えていただくためのきっかけをご提供するものです。そのために本連載の内容に触れて、ご自身の意見(異論含む)を振り返ったり、確立いただく中で、ご自身の思考の座標軸をつくるヒントとしていただければ幸いです。

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    著者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

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