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インタビュー特集:【企業事例】株式会社島津製作所 井村公信氏

【企業事例】株式会社島津製作所

明治維新150年。 その歴史の長さと重なり合う 島津製作所のDNAとは何か。

明治維新後の殖産興業のかけ声とともに、一つのユニークな企業が京都に誕生した。のちの島津製作所である。明治10年、西郷隆盛による西南戦争が始まる一方、京都では島津源蔵が日本で初めて有人による軽気球の飛揚を成功させた。ここに古い精神は退場し、新しい時代の精神が新しい技術とともに登場したと言ってもいいだろう。
創業以来、常に最先端の技術開発に取り組んできた島津製作所の井村公信常務に、同社の歴史、伝統、人材育成などについてお話をうかがった。

1958年、山口県生まれ。九州大学経済学部卒業。1981年、株式会社島津製作所に入社。経理部計理課に配属。1985年、Shimadzu Europe GmbH(ドイツ)出向。1989年、帰国後に経理部計理課。
1993年、Shimadzu Scientific Instruments,Inc.(アメリカ)出向。
1999年、帰国後に人事部課長。その後、社長室秘書課課長、社長室室長を経て2010年、執行役員就任。2012年、Shimadzu (Asia Pacific)Pte.Ltd.社長(シンガポール)出向。2017年、帰国後に常務執行役員就任。

    井村公信

    好奇心の強い一人の仏具師が
    時代の転換期のなか科学技術を志向する

    島津製作所と言えば、やはり創業者や社名の由来を含めて、そのユニークさに関心を持たれることが多いと思います。創業当時は実際どのような会社だったのでしょうか。

     島津製作所と言えば、島津という名前や会社のマークにもなっている丸に十の字の轡紋(くつわもん)ですから、有名な武家である島津家との血縁関係についてよく聞かれます。

      SHIMADZU

      社名の由来には、諸説あります。その中で私が好きな説は、関ヶ原の合戦時にまつわる話です。当時の島津義弘公は西軍について敗走し、薩摩に落ちる途中、播磨のあたりに辿り着いたそうです。しかし、船もなく難渋していたところに、井上惣兵衛という人物が現れ、島津公を助け、それを恩義とした島津公が島津の姓と轡紋を授けたというものです。その井上惣兵衛こそが当社の創業者である島津源蔵の祖先です。

       創業者の島津源蔵は、もともとは仏具師でした。しかし、非常に好奇心旺盛な人物で、明治維新という大きな時代の転換期の只中、科学技術を志向するようになります。現在、創業記念資料館となっているあたりが当社創業の地になりますが、当時は最新の技術や産業の集積地でした。舎密局(せいみきょく)という当時の先端科学技術を研究する機関がすぐ隣にあり、初代源蔵はその舎密局に頻繁に出入りしていたようです。欧米各国からもたくさんの科学者が集っていました。彼らが使う理化学機器も数多くあり、それらが故障したときに初代源蔵に修理を依頼していました。それらの経験値が蓄積され、教育用の理化学機器を作るまでに発展し、島津製作所の根幹事業に成長していきます。

       初代源蔵には、1枚の絵を見ただけで試行錯誤して気球を作り上げたというエピソードもあるくらいですから、非常に才能のある人だったのでしょう。また二代目源蔵もその才能を受け継いで、のちに十大発明家の一人になります。彼の特筆すべき点は、レントゲン博士がX線を発見した11か月後に日本でX線撮影に成功したことです。そのX線撮影の技術が源流となって現在の医用機器事業に繋がっています。彼の偉業のもう一つは鉛蓄電池の製造技術を開発して、製造会社を設立したことです。そこから日本電池(現GSユアサ)や、バッテリーフォークリフトを製造する日本輸送機(現三菱ロジネクスト)、蓄電池の鉛の応用によって大日本塗料という会社も生まれました。これらは島津系4社と言って今でも親しく交流しています。初代、二代目が非常に優秀であったことは、私たちにとっても大変誇りに思える点です。

      初代 島津源蔵

      二代目 島津源蔵

      軽気球飛揚図

      社会に貢献していると実感できる事業
      その高いモチベーションこそが島津のDNA

      ―― そうした明治以来の創業のDNAというのは、現代の島津製作所の世代の方たちにどのように受け継がれているとお考えですか。

       当社では「科学技術で社会に貢献する」という社是を掲げています。英語では、“Contributing to Society through Science and Technology”です。これは当社社員であれば誰でも覚えており、日本や海外のグループ会社の人が諳んじることができるほど浸透しています。それはなぜかと言えば、島津製作所の事業は分析計測機器、医用機器、航空機器、産業機器とさまざまにありますが、どれを取っても社会に貢献しているという実感を得ることができる事業だからです。明治初期、天皇が京都御所から東京の皇居に移ったことで、多くの京都人は意気消沈していました。初代源蔵には科学技術で京都を元気づけ、社会に貢献するという思いもありましたから、そういう意味で島津のDNAは現代にも受け継がれているのではないでしょうか。

       しかし、島津製作所も、私が理解している範囲では過去3回ほど大きな危機に直面したことがあります。1回目が大正年間の関東大震災の時です。当社の東京支社も崩壊しました。それを切り抜けるため当時の経営者は海外に打って出ました。2回目は昭和のオイルショックです。景気が低迷し、為替が変動相場制に移ったこともあり赤字を出しました。この時は国内外の組織を見直し、積極的に新製品に投資して売り上げを伸ばしていきました。3回目が2002年です。「選択と集中」で、多角化した事業から撤退し、医用機器事業では原点のX線の機器に回帰しました。そして、忘れもしません。当時、私は人事部の課長で希望退職者を募りました。大変辛い経験をしましたが、結果的に翌年にはV字回復を果たしました。過去3回とも、その当時の経営者が、何が一番正しいのかということを真剣に考えて社員に伝え、一緒に乗り越えてきました。そこには何も魔法のような施策があったわけでなく、地道に正しいことをやっていこうという気持ちだけでやってきたのだと思います。

      創業当時の社屋

      創業当時の社屋

      日本初の汎用ガスクロマトグラフ

      日本初の汎用ガスクロマトグラフ

      初期のX線写真

      初期のX線写真

      危機の直後に田中耕一氏のノーベル賞
      京都という環境が、田中氏や島津製作所を育ててきた

      ―― 企業が危機に直面するときにこそ、培ってきた組織のありようが問われると思うのですが、そのとき、島津製作所では全社一丸となられたのですね。

       危機感は全員が持っていました。どうしたらいいだろうと全員に問題意識があり、だからやらなくてはならないという強い気持ちに繋がったのだと思います。希望退職の実施や給料のカットなど、辛いことですが何とか受け入れてくれました。克服する方向性は一致していたものの、それで元気になるかと言えば、なかなか難しいのが実情です。そのような停滞ムードを一新してくれたのが田中耕一のノーベル賞受賞のニュースです。一気に会社全体が明るくなりました。

       会社がノーベル賞を目指していたわけでもありませんし、ノーベル賞を受賞できるような人材を採用した、教育したと言うつもりもありません。田中耕一がノーベル賞を取ったのは京都という風土に関係しているのではないかと思います。と言うのも、京都は、ベンチャーとして出発する会社が多くあります。当社もそうです。ベンチャー精神というのは、独自性を追求して他の人がやっていることのモノマネはしないというポリシーのようなものです。

       京都人全体がそうなのかも知れません。例えば京都にたくさんある和菓子屋さんも独自性を求めて決してマネをしないというところばかりです。
       先ほど創業の地は、技術や産業の集積地だったと申し上げましたが、今でも京都は大学が非常に多く、知の集積地と言えます。そういう環境の中で島津製作所も育ってきて、現在の姿があるように思います。

      一から十まですべて教えるのではなく
      肝心なところを繰り返して教える「捨て育ち」

      ―― 京都という街に島津製作所もまた育てられたということですが、では島津製作所の中では人をどのように育てていらっしゃるのでしょうか。

       最近はだいぶ変わってきましたが、人の教育については、当社はかなり放任主義と言えます。「捨て育ち」という言い方をすることもあります。これは刀鍛冶などに例えれば、親方や師匠が弟子に教えるときに、一から十まで全部を教えるのでなく、肝心なところだけを繰り返し教え、あとは自分で学ばせるというものです。そういった“自ら学べ”というような雰囲気が、私が入社した頃にはまだだいぶ残っていたように思います。

       もう一つ当社で言えるのは、若いうちから大きな仕事をポンと任せるというところです。きちんとフォローはしますが、若手のうちからいろいろなことをやらせます。田中耕一が発見することになるノーベル賞の業績は、入社2年目くらいの研究成果です。若手の頃から割と大きな仕事を任せ、一方では自分のやりたいことをやらせてくれるような、おおらかな雰囲気があります。決して制度としてあるのではなく、あくまで雰囲気なのですが、当社では与えられる仕事のかたわら好きな研究に没頭できるという風潮が今もあると感じます。

         会社の教育制度というのはどれほど整えても、やはり基本は本人次第ということになるのではないでしょうか。教育制度を活用して得た知識や経験をベースに、会社や社会にどう貢献していくかは本人の自立や自覚の問題になってくると思います。

        自立した意志を持って働くグローバル人材
        積極的に海外に出て学び経験を積むべし

        ―― 大きな時代の変動が感じられる現代、次世代のリーダーたちに対して、働き方や学び方でどのようなことを期待されますか。

         私も海外が長かったこともあり、従業員にはグローバル人材を目指してもらいたいです。特に若い人には積極的に海外に出て経験を積んでほしいし、海外に出て行くというだけでなく、いろんなことに挑戦する気概を持ってほしいと思います。

         今、働き方改革ということが言われ、さまざまな提言もなされていますが、私の実感で言えば、日本だけが違います。アメリカもヨーロッパもシンガポールなど東南アジアも、働いて給料をもらって生活しているというのは一緒ですが、基本的に従業員と会社というのは対等で、どこの国でも嫌だったら辞めるというのが当たり前です。日本は、年功序列や終身雇用が減少してきているとは言え、非常にウェットな雇用関係です。

         日本異質論とよく言われますが、世界の中で日本だけが異なっているようなところがあります。私はそれを完全に否定をするわけではありませんが、一人ひとりが自立し意志を持って仕事をし、また正当に評価される会社にしていきたいと思っています。

         学び方についても、世界に目を向けてほしいと思います。例えば、シンガポールではほとんどが夫婦共稼ぎです。夫婦で働きながらMBAを取ったり、ドクターコースに行ったりと、非常に強い向上心を持っています。そして子供には、イギリスかアメリカに留学させます。残念ながら日本ではそういう話はほとんど聞きません。
        もう少し日本人も海外へ行ってさまざまな国の人と交流を深めながら知識を吸収するということは必要でしょう。それこそ明治維新で活躍した若きリーダーたちのように高い意志と行動力を持ってもらえたらいいですね。

          島津製作所の本社にて


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